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孫 皓(そん こう)は、三国時代の呉の第4代皇帝。『三国志』において、本名は孫晧。祖父は、初代皇帝孫権。父は孫権の第3子で皇太子に立てられていたが廃された南陽王孫和。子に孫瑾(太子)・孫虔(魯王)・孫充・孫璠他。『三国志』呉志「三嗣主伝」に伝がある。 == 生涯 == === 即位前 === 生母の何氏は丹陽郡句容の人である騎兵隊長何遂の娘で、父の仕事場を見物しているところを偶然孫権の目に止まり、孫権の命令で後宮入りし、孫和の妻とされたという(『三国志』呉志「孫和何姫伝」)。赤烏5年(242年)に孫皓が生まれると孫権は喜び、彭祖という名前を与えた。 第2代皇帝の孫亮の時代である建興2年(253年)、廃立後長沙に押し込まれていた孫和は孫峻と全公主(孫魯班)のために新都郡に強制移住となった上で、自殺を命じられた。孫和とその正妻の張氏(張承の娘)は自殺し、何氏が孫皓と孫和の遺子の養育に当たった(『三国志』呉志「孫和何姫伝」)。 第3代皇帝の孫休が即位すると、孫皓は烏程侯に封じられ、任国に赴いた。西湖の平民の景養が孫皓の人相を占ったところ、高貴の人物になる相であるという結果を得たため、孫皓は密かに喜んだが、他人に漏らすことはしなかった。 永安7年(264年)秋7月25日、孫休が死去した(『三国志』呉志「三嗣主伝」)。当時の呉は前年に盟友の蜀が魏の侵攻により滅亡し、かつ交阯が魏に離反しているなど厳しい情勢にあり、立派な指導者を必要としていた。かつて烏程の令であり孫皓とも親しかった左典軍の万彧は孫皓を称賛し「長沙桓王の如く知勇兼備」と評し、孫休の側近であった丞相の濮陽興と左将軍の張布に働きかけた。濮陽興と張布は孫皓を皇帝にする旨を朱太后(孫休の皇后、朱拠の娘)に述べたところ、朱太后の承諾を得た。こうして孫皓は23歳で皇帝に即位した。元興と改元し、大赦を行った。 元興元年(264年)8月、上大将軍の施績と大将軍の丁奉を左右の大司馬に任命した。張布を驃騎将軍に任命し、侍中を加官した。その他、多くの人達の位階が進み、恩賞が賜与された。 9月、太后の朱氏の位を下げて景皇后とし、父の孫和に諡号を与えて文皇帝とした〔『三国志』呉書何姫伝および同注引『呉録』によると、当初は昭献皇帝と号したという。〕。生母の何氏の位を上げて太后とした。 10月、孫休の4人の子のうち、太子であった孫𩅦(雨+單)を豫章王に、その弟らを汝南王、梁王、陳王に封じた。妃の滕氏(『建康実録』によると、諱は芳蘭)を皇后とした。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「孫皓」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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