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孫蔚如 : ミニ英和和英辞書
孫蔚如[そん いじょ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [まご]
 【名詞】 1. grandchild 

孫蔚如 : ウィキペディア日本語版
孫蔚如[そん いじょ]

孫 蔚如(そん いじょ/そん うつじょ、)は、中華民国の軍人、中華人民共和国の政治家。西北軍を率いた楊虎城の側近的存在の人物で、西安事件日中戦争で活動した。
== 事績 ==

=== 北伐参加まで ===
郷紳の家庭に生まれる。1910年宣統2年)、咸長初等実業学校に入学し、後に長安高等小学校に進学した。1913年(民国2年)、西北大学予科に入学し、同年冬、陝西陸軍測量学校に転入している。1915年(民国4年)夏に卒業し、陝西陸軍測量局地形課で勤務した。この頃、孫文(孫中山)の革命思想に傾倒し、翌年、中華革命党に加入している。1917年(民国6年)末に、孫は胡景翼率いる陝西靖国軍に加入し、陝西督軍陳樹藩との戦いで軍功をあげて地位を上げていく。後に胡が後任の陝西督軍馮玉祥に帰服しても、孫は楊虎城の下で靖国軍の旗幟をかかげて戦い続けた。1924年(民国13年)、馮・胡らが北京政変(首都革命)を起こし国民軍を結成すると、楊・孫もこれに陝西国民軍として合流した。〔靳(1981)、125-126頁。〕〔徐主編(2007)、1549頁。〕〔劉国銘主編(2005)、703頁。〕
1926年(民国15年)初めに、鎮嵩軍を率いる劉鎮華の大軍に西安を包囲されたが、楊虎城・孫蔚如らは8か月にわたり懸命に防戦、最後は馮玉祥が派遣した援軍のおかげで劉を撃破している。西安の危機を克服した後、楊は国民革命軍第2集団軍第10軍軍長に任命され、孫もその下で第10軍参謀長、第2師師長代理などを歴任している。1927年(民国16年)、北伐の一環で山東省方面で北京政府側の張宗昌軍と戦い、これを撃破した。1928年(民国17年)春、楊が日本へ視察に赴いたため、孫が第10軍軍長代理に就任する。その後、第10軍は安徽省河南省山東省と駐留地点をしばしば移された。〔靳(1981)、126-127頁。〕〔〔
この頃、中国共産党粛清が国民政府中央で実施され、楊虎城・孫蔚如らもそれを求められていたが、2人はこれを軍を瓦解させるだけの行為として拒否した。孫が軍長代理となった直後、軍内にいた共産党の士官が第10軍内で蜂起する動きを見せた。孫はこれを鎮圧する一方で過剰な粛清は実践せず、軍内から共産党人士を追放するだけに止めた。1929年(民国18年)からの蒋介石派と反蒋派の戦いには、楊・孫は直接参加していない。中原大戦後の1930年(民国19年)10月に楊が陝西省政府主席に任命されると、孫も第17師師長に昇進し陝西省に戻った。〔靳(1981)、127頁。〕〔

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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