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孫 魯班(そん ろはん、生没年不詳)は、三国時代の呉の公主、長公主〔「長公主」とは、皇帝の姉妹や娘の中で尊崇を受けた者につけられた封号、後に皇帝の姉妹を指すようになる。〕〔『三国志』顧雍伝〕。字は大虎。父は孫権。生母は歩皇后。同母妹は孫魯育。兄弟は孫和など多数。夫は周循、後に全琮。子は全懌・全呉。 == 略歴 == 周瑜の子周循に嫁いだが、周循が早世した。黄龍元年(229年)、全琮に再嫁し、全公主と呼ばれるようになった〔『三国志』歩夫人伝〕。 歩皇后の死後、王夫人(のちに大懿皇后と諡された)が皇后候補になると、王夫人との関係が悪かった魯班はそれを止めようとした。赤烏5年(242年)、皇太子の孫登が死去し、代わって孫和が皇太子に立てられた。魯班は、孫和が生母の王夫人のことで自分を恨んでいるのではと思い、孫和の失脚を画策するようになった。ある時、孫権が病床に臥したので、孫和が宗廟で祈ることになった。すると魯班は、孫和が宗廟を少しの間離れて自分の妃の叔父の元に立ち寄ったとの情報を、ただ聞き知っただけであるにもかかわらず「太子は宗廟で祈らず、もっぱら妃の実家と策を練っているようです。さらに王夫人も病を喜んでいる様子です。」と父に誣告した。孫権がこれに激怒すると、王夫人は失意のうちに病死した。また、孫和も父から疎まれるようになった〔『三国志』王夫人伝、孫和伝〕。 二派が対立すると、孫覇(魯王)派は全琮やその一族、さらに歩皇后の一族である歩騭らを味方にし、讒言により張休・陸遜ら孫和(太子)派の重臣を陥れた。これにより一時は政治的な優位を築いた。 赤烏12年(249年)、全琮が死去し、子の全呉が跡を継いだ。赤烏13年(250年)、孫権は喧嘩両成敗を理由に孫和を廃嫡し、孫覇にも死を命じて、孫亮を皇太子に立てた。後に、再び病床に臥し気弱になった孫権は、孫和の無実を悟り召還しようとしたが、魯班がそれに強く反対したため、結局召還しなかった〔『三国志』孫和伝 裴松之の注が引く『呉書』(韋昭著)〕。孫覇の死後、魯班は新たに父の寵愛を受けた末弟の孫亮に注目し、夫の兄の子全尚の娘を薦めた。また、孫亮の即位後には皇后とさせた〔『三国志』全夫人伝、孫亮伝〕。 魯班はその後、全権を握った孫峻と密通し〔『三国志』孫峻伝〕、孫和を自殺に追い込んだ。五鳳元年(254年)、孫英・孫儀らが相次いで孫峻の暗殺計画を立てるが、いずれも失敗した。このため翌2年(255年)、妹の孫魯育が孫和の廃嫡に反対したことを根に持っていた魯班は、孫峻に「魯育も暗殺計画に加担していたようです。」と誣告し、誅殺させた〔『三国志』孫休朱夫人伝〕〔『三国志』孫綝伝〕。また孫峻の死後、魯育の死の真相を知った孫亮から詰問され窮すると、朱拠の子の朱熊と朱損もクーデター首謀者の一味であったと讒言し、処刑させた〔〔〔『三国志』朱拠伝〕。 太平3年(258年)、孫亮は孫綝の専横に業を煮やし、全尚・孫魯班、将軍の劉承らと謀り、孫綝を誅殺しようと計画した。しかしこの計画は、孫亮側の動きを事前に察知した孫綝が、同年9月26日に先手を打ってクーデターを起こしたことで失敗に終わった。魯班は豫章に流されてしまったという〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「孫魯班」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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