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宇佐氏(うさし)は、宇佐八幡宮の社家。 == 概要 == 宇佐氏は『記紀』にみえる菟狭津彦(うさつひこのみこと)を家祖とし、宇佐国造を世襲したといわれるが、これは疑わしいとされ、実際は下毛郡・宇佐郡の土豪(海人族)が出自と推測されている〔『戦国人名事典 コンパクト版』、141 - 142ページ〕。 奈良時代に八幡神に朝廷の権力が及ぶと、宇佐八幡宮にも神宮司が設置された〔。当初は大宮司職は和人の大神氏(おおみわ)が、祭祀は渡来系氏族の辛嶋氏(からしま)が掌握していたが、道鏡事件が起こると宇佐池守が台頭して宮司に任じられ、宇佐氏の掌握するところとなった〔。 平安時代では、大神氏が大宮司、宇佐氏が少宮司と定められたが、岩清水八幡宮の勧請の後に朝廷の力が薄れると、宇佐氏が大神氏との抗争に勝利して大宮司となった〔。 平安時代末期には宇佐公則が現れ、平氏と結んでその社領は九州全域に及んだ〔。鎌倉時代も宇佐氏による大宮司独占が続き、南北朝時代には宇佐公敦、次いでその弟の宇佐公連が大宮司となったが、公連は南朝に属して独立し、南北朝の争いが宇佐八幡宮にも及んだ〔。 本家は居館のあった向野郷宮成山から宮成氏を称し、公連は到津へ赴いて到津氏を称した〔。その他庶家もそれぞれ大宮司となり、宇佐一族間で激しく争った〔。 戦国時代は大内氏・大友氏などに仕えたものの、宇佐氏の武士としての活動は目立たない〔。また、同時代には奈多鑑基によって所領が蝕まれ、大友軍によって宇佐宮を焼き討ちされて一族が宇佐から闘争する事件も起きている〔。 黒田氏が豊前国へ入国してくると宮成公里の子・宮成公基は宮成公尚に大宮司を譲り、黒田長政に仕えて武士となった〔。 公尚以降は宮成・到津両氏が続き、近代に至った〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「宇佐氏」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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