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横田 豊秋(よこた とよあき、1903年8月27日 - 1936年8月28日)は、日本の映画監督、脚本家、俳優である。撮影助手、撮影技師、助監督、監督、脚本家を経て、映画スターになった稀有な人材である。脚本家・俳優としての名は宇留木 浩(うるき ひろし)である。 == 来歴・人物 == === 撮影助手から映画監督へ === 1903年(明治36年)8月27日、東京市麹町区内幸町1-5〔『日本映画監督全集』(キネマ旬報社、1976年)の「横田豊秋」の項(p.442)を参照。同項執筆は岸松雄。〕(現在の千代田区内幸町1-5、現在の千代田区立内幸町ホールのあたり)に生まれる。父は弁護士、2歳下の妹は新劇から映画女優となった細川ちか子(本名・豊田冬)である。 当時の私立エリート校・芝区芝公園の正則中学校(現在の正則高等学校)在学中、不良仲間の江川宇礼雄と知り合い、1920年(大正9年)に横浜の大正活動映画(大活)の俳優となった江川の影響で、映画界に入るべく、同校卒業後、進学せずに1921年(大正10年)、17歳のときに日活向島撮影所に入社、撮影助手となる〔『日本映画俳優全集 男優編』(キネマ旬報社、1979年)の「宇留木浩」の項(p.85-86)を参照。同項執筆は吉田智恵男。〕。まもなく江川のいる大活に移籍、撮影助手を続ける。 同年夏、大活の撮影所を借りて撮影された映画『真夏の夜の夢』で俳優としてデビューした平田延介(のちの山本嘉次郎)と知り合う〔。以来長いつきあいが始まる。同社の撮影所閉鎖で江川は獏与太平や内田吐夢、井上金太郎らと京都入りし、牧野省三の「牧野教育映画製作所」の設立に参加するが、横田は平田が1922年(大正11年)2月、東京・深川区(現在の江東区深川)に設立した「無名映画協会」に撮影技師として参加した〔。同協会は『ある日の熊さん』(詳細不明)、『未来の大名優』(監督近藤伊与吉、5月19日公開)の短篇2本を撮って解散した。このころまだ横田は19歳である。 1923年(大正12年)、平田が京都の小笠原プロダクションで『愛の導き』に出演し、翌1924年(大正13年)、早川プロダクション製作の『熱火の十字球』の監督に平田が抜擢されると、横田はその監督助手をつとめた〔。同年秋、大活で俳優だった井上が監督として活躍している、西宮市甲陽園の東亜キネマ甲陽撮影所に入社し、平田が「山本嘉次郎」名で監督する『断雲』の監督助手となった。 1925年(大正14年)、山本とともに東京に戻り、高松豊次郎率いる東京府下南葛飾郡吾嬬町(現在の墨田区京島)の「高松豊次郎プロダクション吾嬬撮影所」に入り〔、同撮影所でマキノ・プロダクション製作の『輝ける扉』を山本が監督、横田は助手についた。引き続きマキノ製作の近藤伊与吉主演作『男児一諾』で、主演兼監督の山本の共同監督として、22歳の横田が監督デビューした。横田の昔仲間の江川(西山普烈名義)も出演している同作は、翌1926年(大正15年)1月22日、浅草「大東京」で公開された。同年監督として一本立ちし、近藤主演の『港の謙吉』、国枝史郎原作、佐久間八郎主演の『銅銭会事変』を監督する一方で、監督と役者の境目のない同社の社風から、役者の近藤と長崎武が共同監督した『楠公の唄』に主演、俳優としてデビュー、引き続き友成用三監督の山本の主演作『陽炎の舞』に江川(西山名義)とともに出演する。同社では江川も1本監督している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「横田豊秋」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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