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宇野 功芳(うの こうほう、1930年5月9日 - )は、東京都生まれの音楽評論家、指揮者。国立音楽大学声楽科卒。父は漫談家の牧野周一。二弟の宇野弘二は牧原弘二の芸名でジャズシンガーとして活動。三弟の宇野道義(筆名・宇野通芳、1997年没)は帝京大学助教授。なお、功芳は筆名であり、本名は宇野功(うの いさお)。あまりに身体が弱かったため父から心配され、功が23歳のとき、父が姓名判断によって貰ってきた名前が功芳であるという〔宇野功芳「姓名判断の話」(『宇野功芳著作選集2 オーヴェルニュの歌』p.45、学習研究社、2002年)〕。以前は、宇野功芳を「うの いさお」と読み筆名としていた。 == 略歴 == 4歳のとき童謡の会「金の鈴子供会」に入り、小学校5年生までここで童謡を歌っていた。旧制東京府立第四中学校在籍中に学制改革に遭い、東京都立第四高等学校(現在の東京都立戸山高等学校)を卒業。同校在学中にも合唱活動に熱中。早稲田大学英文科と上智大学英文科に合格し、後者に入学するも合唱部のレベルが低いので入学金を払っただけで中退。1950年秋からテノールの鷲崎良三のもとでレッスンを受け、6年かかって国立音楽大学声楽科に入学。 この間、体を壊し、肺結核で闘病生活を送った宇野は、1952年、敬愛する指揮者ブルーノ・ワルター〔もっとも、本人は「ワルターは一つの憧れであり、その美しさを賞でつつも絶えず物足りない想いをしていたのは事実である」「抵抗はむしろワルターやクナッパーツブッシュにあった」等と述べている〕に手紙を出したところ、ブロマイド付きの返事を得る。これがきっかけとなり、『ディスク』において「ブルーノ・ワルターの芸術」を執筆、評論家としてデビューする。 しかし音大入学前より〔『たてしな日記』あとがき、p.112(学習研究社、2003年)〕合唱指揮者を目指していた本人にとって、評論を生業にすることは当初、不本意だと感じていたようである(近著『宇野功芳の「クラシックの聴き方」』では、学生の頃から取り組み続けている合唱への愛を繰り返し表明する一方、原稿を書くのは「あまり好きじゃない」と告白している)。ともあれ数年後には『レコード芸術』(音楽之友社)とのつきあいがはじまり、やがて数多くの雑誌で執筆活動を行うようになる。1963年ごろ『合唱界』(東京音楽社)誌上で日下部吉彦、佐々金治とともに鼎談による演奏批評を行っていたこともある。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「宇野功芳」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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