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安中久繁 : ミニ英和和英辞書
安中久繁[あんなか ひさしげ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [なか]
 【名詞】 1. inside 2. middle 3. among 

安中久繁 : ウィキペディア日本語版
安中久繁[あんなか ひさしげ]
安中 久繁(あんなか ひさしげ、生没年不詳)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。通称は七郎三郎。別名に広盛〔高柳光寿・松平年一『戦国人名事典』増訂版、吉川弘文館、1962年〕。安中景繁の子で官途名は左近大夫(左近太夫)とされているが異説あり。
安中城主。
ただし、久繁を上杉氏に従属していた羽生城女淵城在番の左衛門尉に比定する説〔栗原修「上杉氏の勢多地域支配」『戦国期上杉・武田氏の上野支配』、岩田書院、2010年〕もあり、その説に従うと安中城主である左近大夫とは別人になる〔安中左近大夫が久繁と別人とすると、その実名は不明ということになる。黒田基樹は左近大夫の実名を「信繁」「勝繁」などの武田氏の偏諱を得たものと推定する(黒田、2013年、P204)。〕。また、安中久繁を上杉謙信の人質となっていた安中重繁の次男(景繁の弟、左近大夫と別人とみなすとその叔父にあたる)もしくは久繁を上杉憲政に従って越後国に逃れた安中長繁系統の人物と推定する説もある〔黒田、2013年、P205〕。なお、深谷上杉氏上杉憲盛の娘が安中城主に嫁いだとする系図も存在〔「竜淵寺本成田系図」〕しており、安中氏が後北条氏に従属していた時期に上杉憲盛と安中左近大夫との間に婚姻が成立したとみられている〔黒田基樹「戦国期安中氏の動向」安中市学習の森ふるさと学習館編『西上州の中世』同左、2010年/『戦国期 山内上杉氏の研究』岩田書院、2013年〕。
== 生涯 ==
上野国碓氷郡を本拠とした国人である安中氏は、安中城、松井田城を有し、代々山内上杉氏に仕えたが、安中重繁の代に永禄8年(1565年)から翌年において、武田信玄の侵攻により安中城が落城し〔近藤義雄『箕輪城と長野氏』戎光祥出版、2010年〕、その子・景繁が安中氏を継いだ。景繁は、武田信玄に仕え各地を転戦したが、天正3年(1575年)5月、長篠の戦いにおいて討死し、安中氏は多くの一族を失った。
景繁の死後は久繁が安中氏を継ぎ、武田勝頼に仕えた 〔。久繁は、天正6年に赤城神社に本領回復の祈願文を奉納している。
天正8年(1580年)には、久繁は武田勝頼の上州攻略の一翼を担っており、膳城(上野)攻略にも参加した〔粕川村教育委員会『粕川村歴史散歩』、粕川村歴史散歩の会、2001年〕。天正10年(1582年)には武田信廉と共に大島城(信濃)を守ったが、織田勢が攻めてくると城を捨て上野に退却した。
天正10年(1582年)3月、織田家の重臣・滝川一益が上野を支配すると他の上野衆と同様にこれに従ったが神流川の戦いに敗れ、以降は後北条氏に属した〔千木良英一『郷土史蹟 神流川合戦記 史記による関東最大の戦』、新町商工会、1982年〕。
天正12年(1584年)、久繁は、北条氏直から笠原政尭と共に厩橋城の当番に命ぜられている〔北条家朱印状・戦3060〕。
天正18年(1590年小田原征伐にて後北条氏が敗れると、安中氏は没落した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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