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安倍 兄雄(あべ の あにお / えお)は、平安時代前期の公卿。中納言・阿倍広庭の曾孫。無位・道守の子。官位は正四位下、東山道観察使。 == 経歴 == 延暦19年(800年)従五位下に叙爵され、桓武朝では少納言・中衛少将を歴任する。大同元年(806年)従兄弟の藤原乙牟漏所生の平城天皇の即位に伴い一挙に従四位下に昇叙される。大膳大夫・右京大夫・右兵衛督を経て、翌大同2年(807年)4月に参議に替わって観察使が設置されると、山陰道・畿内・東山道の観察使を歴任した。なお、観察使を務めていた際には、東山道諸国の正税と公廨稲について、戸口数に準じて増減して出挙したい旨上表し許されている。また、国司交代の円滑化を目的に、不与解由状に前任者と後任者の言い分をそれぞれ書いて上申することについての提案を行っている。 大同2年(807年)10月に発生した伊予親王の変では、左近衛中将として、左兵衛督・巨勢野足とともに150名の兵士を率いて親王邸を包囲した。一方で、当事件により伊予親王が罪なく親王を廃された際に、天皇の怒りが凄まじく敢えて諫めるものは誰もいない中、兄雄のみが言葉を尽くして諫争した。諫争の成果はなかったものの、論者には筋を通したと評された〔『日本後紀』大同3年10月19日条〕。 大同3年(808年)正月に正四位下に叙せられるが、同年10月19日病気により薨去。最終官位は東山道観察使左近衛中将正四位下春宮大夫。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「安倍兄雄」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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