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安倍 貞行(あべ の さだゆき、生没年不詳)は、平安時代前期の貴族。大納言・安倍安仁の子。官位は従四位上・大宰大弐。 == 経歴 == 仁寿元年(851年)従五位下に叙爵し〔『日本文徳天皇実録』仁寿元年11月26日条〕、翌仁寿2年(852年)右衛門権佐に任ぜられる〔『日本文徳天皇実録』仁寿2年2月28日条〕。文徳朝では、左衛門権佐〔『日本文徳実録実録』斉衡2年正月15日条〕・大和守〔『日本文徳天皇実録』天安元年正月14日条〕・右中弁〔『日本文徳天皇実録』天安2年2月28日条〕・刑部大輔と京官を歴任し、斉衡3年(856年)従五位上に叙せられている〔『日本文徳天皇実録』斉衡3年正月7日条〕。 貞観2年(860年)摂津権守に転じたのち〔『日本三代実録』貞観2年6月5日条〕、摂津守〔『日本三代実録』貞観3年正月13日条〕・上野介〔『日本三代実録』貞観7年正月27日条〕・陸奥守と清和朝では地方官を歴任する。上野介在任中の貞観8年(866年)百姓を動員して新たに田447町(約443ha)を開墾した〔『日本三代実録』貞観8年4月27日条〕。また、陸奥守在任中の貞観15年(893年)には、国司による気ままな叙位の実施に伴う財源の枯渇を理由に、夷俘(蝦夷の内で同化の程度の低い者)に対する叙位を年間20人以下に制限すること、および、租税納付での不正や官物の欠損が発生した場合は先ずその国司の俸禄を没収して補填させ、俸禄では補填できない場合は国守以下全国司の俸禄で補填させること、等を太政官に願い出て許されている(この時の位階は正五位下)〔『日本三代実録』貞観15年12月23日条〕。 右京大夫を経て、元慶3年(879年)従四位上に叙せられ〔『日本三代実録』元慶3年正月7日条〕、翌元慶4年(880年)大宰大弐として大宰府に赴任。同年には、これまで大宰府の警固については大宰少弐・藤原房雄が対応していたところ、藤原房雄が肥後守に転任後、警固が行われなくなってしまったが、新たに別の対応者を設定することなく、大宰府の裁量で対応すること、及び、筑後・豊後両国の国守は必ず大宰府を経由して平安京に入京することとし、大宰府の了承を得ない安易な出国を禁止すること、を朝廷に申請し許されている〔『日本三代実録』元慶4年6月7日条〕。元慶7年(883年)6月に100人ほどの群盗により筑後守・都御酉が射殺されて邸宅が略奪を受けたが、8月月初に群盗を捕縛して、朝廷に対して官人の派遣を要請するなど〔『日本三代実録』元慶8年6月20日条〕、管内の事件を処理している。 これら地方官の業績を称えられ、貞観14年(872年)清和天皇から〔『日本三代実録』貞観14年7月13日条〕、元慶4年(880年)には陽成天皇から御衣を賜与されている〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「安倍貞行」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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