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安原 政雄(やすはら まさお、明治43年(1910年)10月13日〔出典は、溝口敦『山口組ドキュメント 血と抗争』三一書房、1985年、ISBN 4-380-85236-9のP.289〕 - 没年不明)は、日本のヤクザ。暴力団三代目山口組若頭(後に舎弟に直った)。安原会会長。通称マンマン。兄の安原武夫も三代目山口組で七人衆の一人にかぞえられた。 ==来歴== 兵庫県神戸市で鉄工所工員の四男として出生。尋常小学校卒業後に不良となり、兄の武夫と共々二代目山口組・山口登組長の元へ出入りするようになって、若衆となる。 昭和21年(1946年)に田岡一雄が山口組三代目を襲名すると、兄・武夫とともに田岡の舎弟となる。この時山口登の舎弟だった森川盛之助や湊芳次が田岡の舎弟に直り、また、岡精義(後の山口組七人衆)〔昭和18年(1943年)、岡精義は、神戸港運株式会社を起こし、組長となっていた〕も田岡一雄の若衆(後に舎弟)になっている。また同年1月には小料理屋「鈴屋」で、山本健一(後の三代目山口組若頭)に盃を与え、自らの若衆としている〔媒酌人は鮎昇政吉。安原武夫、大平一雄(本名は松浦一雄。後の三代目山口組若頭補佐)、小田芳一(小田吉一とも名乗った。後の山口組三代目若頭補佐)、山口登の若衆だった藤田仙太郎(元関脇・山錦善治郎。本名は山田善治郎)が列席。なお後に山本が昭和32年(1957年)出所すると、田岡から直接盃を受け山本は直参に昇格する。〕。 昭和25年(1950年)に山田久一の跡を継ぎ若頭となるが、昭和30年(1955年)2月に武夫が田岡によって安原運輸の社長に据えられ、相前後して自らは若頭の職を地道組・地道行雄組長に譲って舎弟に直った。この頃、田岡の港湾事業は磐石なものとなり、山口組興行部のしのぎとともに、山口組が全国展開できるような経済力を持てるようになった。 昭和36年(1961年)5月に山本や美能幸三の仲介で広島市の打越会/打越信夫組長と兄弟盃を交わし、第二次広島抗争の切っ掛けを作る。昭和40年(1965年)からの山口組に対する第1次頂上作戦では、昭和41年(1966年)5月3日に兄・武夫が山口組の企業舎弟/青井照日出らとともに山口組から脱退し、自身も昭和42年(1967年)〔出典は、溝口敦『山口組ドキュメント 血と抗争』三一書房、1985年、ISBN 4-380-85236-9のP.289〕12月15日にヤクザからの引退を表明、安原会を解散した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「安原政雄」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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