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安子島氏/阿子島氏(あこがしまし/あこじまし)は、日本の氏族。武家。本姓は藤原氏。家系は藤原南家伊東氏の庶流。安古島とも。 ==事跡== 安子島氏は源頼朝に随身し陸奥国安積郡に所領を賜った工藤祐経の流れを汲み、安積伊東氏の祖となった伊東祐時の後胤と伝える。代々、陸奥国南部に栄えた安積伊東氏の一門・家臣として安子島城主の地位にあった〔安子島城の城跡は郡山市熱海町安子島字南町にある。〕。 応永11年(1404年)、南陸奥の諸将が室町幕府方と鎌倉府方に分かれて争った際、鎌倉府方の篠原御所足利満直に忠誠を誓った国人衆30名の中に、安子島祐義の名があるという〔室町時代、陸奥国は幕府の管理下から鎌倉府に移管されたが、実際には幕府の影響力が及んでおり、奥州探題大崎氏をはじめ、京都扶持衆など数多の国人が幕府の直轄下とされた。かねて幕府に対して独立志向のあった代々の鎌倉公方はこれに反発し、京都扶持衆をしばしば討伐した。足利満直は3代鎌倉公方足利満兼の弟で満兼の命により、安積氏の支配下であった陸奥国安積郡篠川に拠り、篠川御所と称し、安積伊東氏、白河結城氏ら30名を率い、反鎌倉府の最右翼 伊達氏と対峙した。太田亮編『姓氏家系大辞典第1巻』 63頁参照。〕。 戦国時代以降は安子島右衛門大夫の代まで奥州管領二本松氏に随身していたが、二本松義継が伊達政宗に討たれた後は二本松氏を離れ、会津黒川城主蘆名義広に従った。しかし、政宗が蘆名討伐に乗り出すと、安積や安達の諸勢力がことごとく伊達氏に寝返る中、安子島治部大輔祐高一人、義を重んじ、安子島城に籠城し一戦交えんと伊達勢に立ち向かった。しかし、戦況理なしとみた祐高は城兵の助命を条件に開城し、自らは同城より退いた。蘆名勢は摺上原の戦いで伊達勢に敗れ、安積郡一帯は伊達家の支配下に入った〔『姓氏家系大辞典第1巻』63頁参照。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「安子島氏」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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