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安宅 冬康(あたぎ ふゆやす)は、戦国時代の武将。三好氏の家臣。三好元長の三男。安宅氏へ養子に入り淡路水軍を統率し〔、三好政権を支えたが、兄・三好長慶によって殺害された。経緯・理由については様々な見解があり不明な部分が多い。 == 生涯 == 享禄元年(1528年)、細川晴元の重臣・三好元長の三男として生まれる。兄に三好長慶、三好実休、弟に十河一存、野口冬長がいる。 安宅氏は淡路国の水軍衆である。長兄の長慶は当時、細川氏などによって畿内を追われ淡路島にいた。長慶は冬康をこの安宅氏の当主・安宅治興の養子にして家督を継承させた。穏やかで優しい仁慈の将であり、人望が高かったという〔今谷・228、250頁〕〔 『三好長慶』<人物叢書>・228頁〕 以降、三好家は長兄の長慶が摂津・河内・和泉の兵を、次兄の三好実休が阿波衆を、冬康が淡路衆を、弟の十河一存が讃岐衆を率いるという体制で各地を転戦した。冬康は大阪湾の制圧や永禄元年(1558年)の北白川の戦い、永禄5年(1562年)3月の畠山高政との戦い(久米田の戦い)に従軍、特に畠山高政との戦いでは次兄の実休が敗死すると冬康は阿波に撤退して再起を図り、6月には再び高政と河内で戦い勝利している(教興寺の戦い)。 その後、弟・一存や次兄・実休、甥で長慶の嫡男・三好義興が相次いで死去すると、三好一族の生き残りとして長慶をよく補佐したが、永禄7年(1564年)5月9日に長慶の居城・飯盛山城に呼び出されて自害させられた〔この時、冬康と共に入城した従者18人も生害させられたという(『細川両家記』『足利季世記』『続応仁後記』)『三好長慶』〈人物叢書〉228頁。〕。享年37〔享年39ともされる。『三好長慶』〈人物叢書〉230頁。〕。跡を子の安宅信康が継いだ。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「安宅冬康」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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