翻訳と辞書
Words near each other
・ 安寧市
・ 安寧河
・ 安寧県
・ 安寧秩序
・ 安寿
・ 安寿 (テレビ制作会社)
・ 安寿と厨子王
・ 安寿と厨子王丸
・ 安寿と厨子王丸 (映画)
・ 安寿ミラ
安寿吉
・ 安寿姫塚
・ 安寿無情
・ 安尾信乃助
・ 安居
・ 安居 (曖昧さ回避)
・ 安居 (福井市)
・ 安居剣一郎
・ 安居区
・ 安居喜造


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

安寿吉 : ミニ英和和英辞書
安寿吉[あんひさしきち]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

寿 : [ことぶき]
 【名詞】 1. congratulations! 2. long life! 

安寿吉 : ウィキペディア日本語版
安寿吉[あんひさしきち]

安寿吉(An Su Kil, アン・スギル、1911年11月3日 - 1977年4月18日)は韓国小説家は南石。安は幼年期を間島で過ごした。間島は朝鮮独立運動の盛んな場所であったため、安は亡国人の苦しみを特に目の当たりにしていたのだろう。安の文学は、亡国という苦しみをひとつのテーマに置いている。
== 略歴 ==
1911年11月3日、咸鏡南道咸興市に生まれる。父は安鎔浩、母は金淑卿の2男1女の長男。父の安鎔浩は間島龍井にある光明高等女学校の校監を務めていた。安が5歳のとき、興南市西湖里に引越し、ここで戸籍を登録したので、原籍は興南市である。興南市の小学校に通い、13歳で満州の間島に引っ越す。間島中央学校を卒業し、再び咸興市に戻り、1926年3月、咸興高等普通学校に入学する。ここで2年生のとき、安は同盟休学を首謀する。そのため自主退学することになる。1928年3月、ソウル儆新学校に3年次編入する。1929年11月3日、光州学生事件が起こると、儆新学校でも学生が立ち上がり、デモが起こった。安はこのデモの中心人物となり、日帝当局によって逮捕された。5日間拘留された後、儆新学校は退学処分となる。
1930年、19歳のとき、日本に渡り、京都両洋中学校に入学する。両洋中学校を卒業後は東京早稲田大学高等師範部英語科に入るが、学費の捻出が困難になり、帰国する。帰国後、間島の小学校で教鞭を取りながら文学修業を積み、1935年に『朝鮮文壇』に短篇「赤十字病院長」とコント「赤いマフラー()」が載せられ、文壇にデビューする。また、この年、朴栄濬李周福金国鎮などと同人誌『北郷』を刊行する。1936年から、『間島日報』の記者として勤務し、『間島日報』が『満蒙日報』と合併して『満鮮日報』ができると、新京に行って勤務する。『満鮮日報』では、廉想渉申瑩澈宋志英李石薫などと知り合う。その後、1945年6月に体調を崩して『満鮮日報』を退社するまでの間も作品を多く発表している。
1945年6月に体調を崩して『満鮮日報』を退社すると、故郷の興南市厚農里で3年ほど療養する。やがて、朝鮮半島の分断が確実になると、安は家族を連れて越南した。1948年、『京郷新聞』に入社し、文化部次長や調査部長を務める。朝鮮戦争が勃発すると、安は大邱釜山に避難する一方、李璇求と共に海軍政訓監室文官として勤務した。戦局が落ち着くと、ソラボル芸術大学梨花女子大学校で教鞭を執る。解放後も創作活動は旺盛で、1960年5月には、国際ペンクラブの韓国本部中央委員に被選し、そのほか、1962年韓国文人協会理事を務めた。1970年6月には、台湾で行われたアジア作家大会に韓国代表として出席し、1ヶ月間、台湾と日本を遊覧する。1977年4月18日、死去する。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「安寿吉」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.