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安島氏 : ミニ英和和英辞書
安島氏[あじまし]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [しま]
 【名詞】 1. island 
: [うじ]
 【名詞】 1. family name 2. lineage 3. birth 

安島氏 : ウィキペディア日本語版
安島氏[あじまし]
安島氏(あじまし)は、姓氏のひとつ。安島、または安嶋とも記す。常陸国及び東北地方における武家のひとつ。また越前国近江国にも見られる。


==安島氏とは==

安島氏本姓藤原氏とする一族である。家系大織冠藤原鎌足の三世 藤原北家の祖 正一位太政大臣藤原房前の五男 川辺左大臣正二位魚名の流れを汲む血筋で、贈正二位鎮守府将軍俵藤太秀郷を祖とする。主に常陸国(茨城県)から陸奥国東南部・中部(福島県)一帯にかけて活躍した武家である〔日本家紋研究会編『家紋でわかるあなたの祖先 福島県浜通り地方、 原町、相馬市、いわき市』(日本家紋研究会、2001年)2頁参照。なお、関流算学の系譜にある安島直円も、正式な名乗りを安島萬蔵藤原直円と掲載されている。ちなみに、遠祖の家系とされる藤原北家は摂政関白を輩出する摂家をはじめとする公家の頂点ともいうべき系統であり、その傍流 藤原秀郷はもとは下野国府の在庁官人であり、天慶2年(939年11月21日下総国豊田猿島郡司平将門新皇と称して朝廷に叛旗を翻し承平天慶の乱を起こすと、将門の従兄で平氏の嫡流であった左馬允平貞盛とともにこれを討ち、従四位下に叙せられ鎮守府将軍武蔵守下野守に任ぜられた武将である。後世、弓馬故実の流祖として多くの東国武士の尊崇を集め、佐野唐沢山神社に祀られるなど軍神としても仰がれた。
秀郷の家系は源氏平氏を凌駕する武家の棟梁として看做され、その子孫からは小山氏結城氏波多野氏をはじめ多くの武門が誕生した。なお、平貞盛もこの戦功で従五位下に叙せられ、国司を歴任、後に鎮守府将軍となり伊勢平氏常陸平氏などの祖となる。なお、藤原秀郷については、野口実著『伝説の将軍 藤原秀郷』(吉川弘文館、2001年)5頁以下、安木三郎著『藤原秀郷将軍』(牧歌舎、2006年)14頁、野口実著『武家の棟梁の条件』(中央公論社、1994年)64頁-73頁以下に詳しい。〕。
陸奥国磐城地方の安島氏の家紋は「酢漿草」、「丸に木瓜」、「丸に違い鷹の羽」などを用いる家が多い。また、常陸国の安島氏は諏訪神党として諏訪神社を信仰し、その神紋に由来する「丸に細立ち梶の葉」、「丸に中陰抱き梶の葉」などを用いた〔日本家紋研究会『家紋でわかるあなたの祖先 茨城県』(日本家紋研究会、2001年)3頁、日本家紋研究会編『家紋でわかるあなたの祖先 茨城県北部地方』(日本家紋研究会、2001年)2頁参照。諏訪氏は信濃国一ノ宮 諏訪神社、現在の諏訪大社大祝を世襲、諏訪郡を中心に栄えた諏訪神党の家柄。代々、源氏の家人であり、鎌倉幕府御家人を経て、執権北条氏の御内人となり、その勢威を背後に全国に諏訪神社を建立したという。常陸国にも諏訪神社が建立され諏訪姓の神官が任ぜられた。安島氏はその一族か。但し、詳細及び正否は不詳。〕。
また、太田亮上田萬年三上参次監修『姓氏家系大辞典 第1巻』(角川書店1934年)によれば、「『東作志』に「安島善弥、近江国にて死去す。安島庄左衛門越前太守少将光通奉仕」と見ゆ。」と記されており、近江、越前国にも安島姓の人物の存在があったことが確認できる〔太田亮著、上田萬年三上参次監修『太田亮姓氏家系大辞典 第1巻』(角川書店、1934年)106頁。〕。但し、安島氏の全容、とりわけ成立経緯を探るうえで、祖という藤原秀郷からの系譜や本貫地つまり名字の発祥地となった地域は必ずしも明確ではない。安島氏の主な分布地である常陸国についても「安島」という地名は確認されない。同音の姓としては長野県群馬県分布する阿島氏があるが、これらとの関わりは見いだせるものではない〔長野県の阿島氏は本姓が清原氏であり、信濃国伊那郡豪族 知久氏の家臣であって安島氏とはまったくの別氏族である。ちなみに、長野県の阿島氏は家紋を丸に桔梗紋を用いるという。また、群馬県の阿島氏は九曜紋を用いるという。この点については千鹿野茂編『都道府県別姓氏家系大事典 東日本編』(柏書房2004年)638頁の「長野県姓氏家紋早見表」、同369頁「群馬県姓氏家紋早見表」参照。〕。常陸国久慈郡には芦間郷(あしまごう)という地があり、その地を発祥とする葦間氏という一族があるが、これは戦国大名 佐竹氏一門であり、本姓は源氏であり藤原氏である安島氏とは合致せず、陸奥国安積郡安子島には本姓を藤原氏とする伊東氏一門 安積伊東氏の庶流安子島城主として栄えた安子島氏なる一族があるが、同じ藤原姓とはいえ、安島氏との関連について直接的なつながりを示すものはない〔安島氏の類似姓である葦間氏については「清和源氏佐竹白石氏の族なりと伝わる。『佐竹白石系図』に、「佐竹白石源忠-義忠(葦間)」と見ゆ」と載せる。この点については太田亮前掲書(角川書店、1934年)106頁に記載がある。また、陸奥国安積郡の安子島氏については、本姓を藤原氏、贈太政大臣藤原武智麻呂を祖とする藤原南家の流れを汲む、工藤大夫藤原為憲を祖の家系であるという。常陸介藤原維幾の子であった藤原為憲が天慶の乱で常陸国府の兵を率い平将門を討伐し、宮内省木工寮の次官 木工助に任ぜられ工藤氏を興し、工藤大夫を称する。その後、伊豆権守等を歴任し伊豆国伊東荘を領有した。その子 維景伊豆国狩野を領し狩野氏の祖となり、その子は維職伊東に拠り伊東氏を起こした。その後、平安時代末期に平家方として伊東入道祐親が源頼朝に敵対するものの、その次男 工藤左衛門尉祐経は頼朝に与し、奥州征伐に功を挙げて、日向国の地頭職、陸奥国鞭指庄など24ヶ国に所領を賜った。その三男 工藤薩摩守祐長は四代将軍・権大納言藤原頼経より陸奥国安積郡45邑を賜り、安積伊東氏となった。安子島氏はその庶流にあたる。室町時代の武将 安子島祐義は室町幕府と鎌倉府の争いで、当初 鎌倉府の代官として安積に拠った篠川御所 足利左兵衛佐満直に忠誠を尽くすと約した応永11年7月の連署起請文に署名するなど、篠川御所傘下の武将として活躍した。しかし、戦国時代に入り安子治部大輔島祐高の代に伊達勢の前に居城 安子島城が落城し、安子島氏は滅亡、会津に落ち伸びたが、一族 祐清の子 寛政は伊達氏の重臣 片倉氏に仕官し、代々阿子島氏を称したという。その子孫に衆議院議員、白石町長を務めた阿子島俊治音楽評論家阿子島たけしがいる。太田亮前掲書(角川書店、1934年)63頁及び宮城県姓氏家系大辞典編纂委員会編『宮城県姓氏家系大辞典』(角川書店、1996年) 296、440頁参照。〕。このことから、依然、安島氏をめぐる全容は不明な点が多いといえる。
安島氏が歴史上、登場するようになるのは主に15世紀、旧陸奥国岩城郡小川城主で後に常陸国久慈郡上小川村(現大子町)の小川城主となった佐竹一門の小川大和守義継配下の侍大将22騎の中に「安嶋善之進久成」の名が確認される〔長福寺所蔵『小川家系図』参照。〕。安島一族の動向が盛んに見られるのは戦国時代の頃からであり、概ね常陸守護職 佐竹氏及びその一門 佐竹東家、常陸守護代 江戸氏家臣として仕えた家系に分けることができるが、佐竹東家家臣としての安島氏はもとより、佐竹宗家直臣の安島一族の多くも南陸奥の統括を担った佐竹東家当主に従属しているという点で共通しており、安島氏一門の多くが佐竹東家の配下にあったと見られる〔佐竹東家とは佐竹氏の一門の家柄。佐竹氏14代当主 右京大夫義治の五男 将監政義にはじまる。佐竹氏の居城 太田城の東に屋敷を構えたことから東殿と称された。ちなみに、四兄 右衛門尉義信は北殿と称され佐竹北家の初代当主となり、佐竹氏15代 右京大夫義舜の四男 次郎左衛門義里は佐竹南家を興す。なお、江戸氏家臣としての安島氏は、藤井村、175貫、「安嶋隼人」の名が見える。大内政之介著『新編金砂戦国史』(筑波書林1993年)204頁参照。〕。
安島氏の動静について特に着目すべきは安島一族が活躍した地域が陸奥南郷領そして鹿島郡など佐竹氏が戦国期以降獲得していった領地に見られる点である。元来、佐竹氏は常陸北部を版図としてきたが、永禄3年(1560年10月佐竹右京大夫義昭の軍勢が白河結城氏寺山城を攻め落とし、陸奥国高野郡を制圧。次いで、天正2年(1574年2月赤館城奪取により白河郡に新たな領地を獲得し、天正6年(1578年8月の佐竹・白河両家の和議によって確定したことで、佐竹氏の陸奥南郷領が確立されていった〔佐竹氏の陸奥南郷領についての学術的な研究は、主に佐々木倫朗著「佐竹氏の陸奥南郷経営―戦国期から統一政権期にかけて―」『歴史人類 第5号』(筑波大学歴史人類学系、1997年3月)49頁以下参照。〕。とりわけ、戦国期の佐竹氏の版図拡大と領土防衛にとって陸奥南郷領はきわめて重要性を帯びた地域であり、多くの安島一門も佐竹左近衛中将義宣の一門で陸奥南部の支配を委任されていた佐竹東家当主 佐竹山城守義久の配下としてこの地域の前線に配置されていたことがわかる。特に、陸奥南郷で活躍した安島美濃守清広棚倉の城代として陸奥中郷、即ち、棚倉以北を中心に活動した安島丹後守久成などはその代表的な存在であろう。戦国時代当時、棚倉における佐竹氏の拠点は赤館城、寺山城、羽黒山城東館の四城であり、久成が城代を務めたとすればいずれかであると推定される〔美濃守清広については本項目 秋田藩士 安島氏安島美濃守清広の節を、丹後守久成については新庄藩士 安島氏安島丹後守久成の節を参照のこと。〕。
なお、戦国期の陸奥南郷及びその周辺地域は、陸奥石川氏浅川氏などの在来勢力たる国人衆が割拠しており、とりわけ、佐竹領近在の国人 浅川氏が宿敵 伊達氏に帰順したこともあって厳しい経営を強いられていた。そのため、佐竹氏は、南郷領に住まう、佐竹氏との縁故の薄い土豪勢力や在来の有力百姓の取り込みを強化するとともに、如何に佐竹氏の影響力を浸透させていくかが重要課題であった。そこで佐竹氏では南郷領の知行宛行つまり領土分配についてはまず、芳賀河東田白井粥目須田深谷大賀上遠野氏ら服属した国人に対して本領安堵し、被官として取り込みを図る一方、佐竹氏の陸奥国名代である佐竹一門、次いで佐竹氏の行政担当ともいうべき、和田氏人見氏らの奉行衆、さらに現地支配を担当した菊池氏安藤氏井上氏をはじめ中下級家臣からなる吏僚層に南郷領一帯に新たな領地を給し、佐竹氏の支配権確立に努めた〔なお、佐竹氏の陸奥南郷支配の経緯と、知行宛行を受けた在来の土豪や家臣についての詳細は佐々木倫朗前掲「佐竹氏の陸奥南郷経営―戦国期から統一政権期にかけて―」『歴史人類 第5号』(筑波大学歴史人類学系、1997年3月)50~51頁及び67頁の「文禄四年八月二十八日付高野郡菅家い知行充行奉書目録」の表を参照のこと。〕。
しかし、芳賀氏や河東田、白井など南郷領在来の土豪勢力の惣領家はことごとく伊達氏か白河結城氏に随い、白河結城氏に従った家々も最終的には伊達氏に服属したとされ、その後の佐竹氏の陸奥南郷領支配は必ずしも好転したとは言い難い情勢にあった〔。特に安島氏との関連から見ても、天正10年(1583年)、安島丹後守久成の子 隼人も棚倉より常陸国内に落ち伸びているなど、苦難を強いられたことがわかる〔山形県新庄市立図書館編『郷土資料叢書第十輯』「戸沢家中分限帳(二)」53頁参照。〕。その後、関白の座につき天下統一に乗り出した豊臣秀吉惣無事令が発布により全国の私闘が禁じられ、太閤検地が行われるに及び、それまで佐竹氏が獲得していた南郷領については安堵が認められた。しかし、それまで陸奥南領支配を任されていた佐竹義久については天正18年(1590年)に秀吉から直々に常陸国鹿島郡へ6万石で転封及び豊臣氏直轄領代官を命じられ、その後の陸奥南郷領統治は佐竹北家の当主 左衛門督義憲に委ねらることになった。『秋田藩家蔵文書』によれば文禄5年(1596年4月23日、佐竹義憲より安島下野守に書状が下されたと記録があるが、これは陸奥南郷領の支配を巡る文書の交換か〔佐竹義憲は佐竹北家の4代当主。東家の佐竹義久の後を受けて、佐竹氏における奥州戦線を指揮し、佐竹常陸介義重の三男 修理大夫貞隆が入嗣した岩城氏の家政も統括した。常陸大宮市史編さん委員会前掲書(常陸大宮市、1982年)38頁参照。〕。また、佐竹義久の陸奥南郷から鹿島郡転封に際して、主君に随って鹿島郡に転じた人物として佐竹東家の家臣 安島修理亮の子 大膳亮がおり、大膳亮は鹿島郡扱に任ぜられ、同地支配を担任する役人となっていることが確認されている〔詳細は安島修理亮某の節を参照〕。
但し、ここでさらに着目すべきことは安島氏の一族が戦国期に活動した陸奥南郷領や鹿島郡にはその後一切土着することなく、むしろ佐竹氏が本領常陸北部一帯、即ち茨城郡新治郡那珂郡久慈郡多賀郡水戸市常陸大宮市大子町ひたちなか市日立市高萩市付近)、陸奥国では磐城郡標葉郡福島県いわき市付近)にかけて分布しているという点であろう〔福島県では、日本家紋研究会前掲『家紋でわかるあなたの祖先 福島県浜通り地方、 原町、相馬市、いわき市』(日本家紋研究会、2001年)では安島姓の記載があるが福島県の中通り(福島市二本松市郡山市須賀川市白河市など)及び会津地方(会津若松市喜多方市など)の資料には安島姓に関する記載はない。〕。安島氏の多くが、佐竹氏の本領において見られ、新たな領土たる陸奥南郷領や鹿島郡の土豪勢力に安島姓がないことなど考慮すれば、安島氏は高野郡に土着する有力百姓か佐竹氏が領土拡大のために前線に送り込んだ中下級家臣の吏僚層と見るのが妥当であろうか〔。
以上のように、安島氏は一定の活躍が認められながらも謎の多い一族ということができるが、その全容を探る上で着目すべき点がいくつかあげられる。まずは、安島氏の一門の多くが美濃守や丹後守、下野守などの受領名、即ち国司や修理亮、大膳亮、采女介など諸大夫相当の官職を私称することを許される官途状を授かっていることであり〔諸太夫とは本来、親王や摂家、大臣家の家令・家扶のこと。江戸時代以降は五位に叙せられるものをいった。和田英松著、所功校訂『新訂 官職要解』(岩波書店、2006年)301頁及び355頁参照。〕、陸奥国前線の城代を務め、また、恩賞として所領を給付されているなど、一定の地位なり功績のある武将として遇されていたことであろう〔なお、受領名とは朝廷の正式な官職ではなく、室町時代守護大名が家臣に対して恩賞の一環として官職の私称を許したもの。安島清広が授けられた美濃守という受領名は、本来は従五位下相当の官職で、朝廷の地方官である美濃国国司長官官名のことである。国司の格式としては大国に次ぐ上国であり朝廷の税収が大いに期待された国である。また、安島下野守が名乗る受領名は従五位下相当の国司が任ぜられる上国であり、比較的格式の高い官名であった。また、安島久成の名乗る丹後守については、丹後国の国司の長官に由来する受領名であり、同国は大国、上国の次に位する中国に位し正六位下相当した。江戸時代など時代が下るにつれて従五位下相当として叙任された。官職については和田英松前掲書(岩波書店、2006年)162頁から166頁参照。〕。
さらに、安島氏に関する縁組についても、戦国期から江戸期を通じて、瀬谷城主 人見氏吉田社の田所職 田所氏三河国田原城主 戸田氏の一門など藤原姓との養子縁組が多く、次いで陸奥石川氏の支流 常陸国大窪城主 大窪氏小笠原流出羽国楢岡城主 楢岡氏の一門 吉高氏など清和源氏の家系が多く見られる。姻戚関係についても佐竹氏一門の国安氏高久城主 高久氏深沢氏など常陸源氏の家系、或いは佐竹氏宿老人見氏や常陸守護代 小野崎氏の一門で常陸国部垂城主大台城主を務めた小貫氏、同じく常陸守護代 江戸氏の支流で河合城主 川井氏、陸奥南部の上遠野氏など藤原秀郷流の家系、或いは大掾氏の支流 鹿島氏の一門で常陸国立原城主を務めた立原氏など常陸平氏の家系、さらに陸奥国鯨岡館主湯本城主 鯨岡氏など陸奥国浜通りに勢力を有する海道平氏の一門、さらには飛騨国の元小鷹利城主 牛丸氏などその他の桓武平氏の一族など城主級の有力武家との縁組が多く、一定の家格身分を有したことは認められる。これらの点も安島氏の出自をはじめその全容を知る上で重要な点であるといえる〔詳細は以下 各安島氏の節を参照されたい。〕。
なお、以下の節では安島氏の一族について詳述する。佐竹家臣たる安島氏を見ていくとその系統は複数存在することが確認されており、大きく分けて、佐竹氏の秋田転封に伴って佐竹氏の家臣または陪臣として存続した系統、没落し流浪の末、一時、常陸国内に領地を得た新庄藩主 戸沢氏に従属した系統、さらに戸沢氏に仕えたものの戸沢氏の出羽転封には随行せず、新たな領主として常陸国に入封した水戸藩主 徳川氏水戸徳川家)に仕官した系統などに分けることができる。さらに、別して江戸時代、笠間藩士として続いた安島氏があるが、これは戦国期の江戸氏の勢力範囲ときわめて近いことから江戸氏家臣たる安島氏の系統であろうか〔笠間藩主 牧野氏の家中について詳述した茨城県立歴史館所蔵の常陸笠間牧野家文書『年数帳』によれば、藩士の姓としてあの行に〔秋山・安堵・粟尾・朝比奈・芥川・秋元・荒木〕〔荒井・浅野・青木・新井・有馬・阿部・安嶋〕と記載されており、この中で安島(安嶋)姓の存在を確認することができる。〕。
このうち、戸沢氏に随身した丹後守久成の子隼人の系統からは江戸時代中期の和算家 贈従五位安島萬蔵直円が、また、同じく佐竹義宣の家臣であった安島丹後信勝の系統は水戸徳川家に随身し、その子孫からは幕末の水戸藩家老贈正四位安島帯刀信立らが輩出されている〔安島直円が贈られた従五位とは、“じゅごい”と読み、律令制下では従五位上と下に分けられ、主に修理亮や大膳亮など京官の次官、美濃守や下野守など国司の長官に相当する位であった。従三位以上の朝臣を貴、従五位下以上の朝臣を通貴といいいわゆる貴族に列する位である。江戸時代までは大名や上級旗本、大藩の家老が叙任される位階とされていた。また、安島帯刀の贈られた正四位とは“しょうしい”と読み、律令制下では、正四位上と下にわけられ、主に朝廷の政治に参画する参議中務卿式部卿など八省の長官に相当し、公卿または公卿に準ずる位であった。江戸時代は水戸徳川家の当主、越前藩 越前松平家など徳川将軍家御家門をはじめ、譜代大名筆頭 彦根藩主 井伊氏外様大名では国主以上の加賀藩 前田氏薩摩藩 島津氏仙台藩主 伊達氏のみ叙せられた。安島帯刀への贈位については前掲田尻佐編『贈位諸賢伝』1頁に詳しい。明治時代以降は安島帯刀のように明治維新に功績のあった人物・物故者が叙せられている。〕。他にも安島姓を名乗る幕末の志士として安島俊次郎安島鉄次郎義徳安島安などの人物が輩出されている〔後段、水戸藩士 安島氏の節を参照せよ。〕。
なお、安島氏の系図では遠祖の名に〇、家祖を◎を付記した〔本稿における遠祖とはその家系で存在が確認される最古の祖先をいう。家祖とは、主家により召出され家臣に取りたてられた場合、また、分家が認められ本家と別に主家に奉公することになった場合、その初代を以て家祖と看做した。〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「安島氏」の詳細全文を読む




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