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安 昌浩(アン・チャンホ、1878年11月9日 - 1938年3月10日)は、朝鮮の思想家、平和主義者で、日本の植民地支配からの解放を目指す活動をした朝鮮独立運動家である。現在大韓民国においては「韓民族独立の父」として顕彰されている。号は「島山」(ドサン、)であり、ソウルに島山公園と島山・安昌浩記念館が作られている。 == 概略 == 朝鮮平安南道に生まれ、イギリス人牧師ホレイス・グラント・アンダーウッドの救世学堂で学ぶ。キリスト教徒。 大韓帝国における愛国啓蒙運動に従事したあと渡米したが、1905年に日韓保護条約が締結されたことを知り帰国した。その後新民会を組織して民衆運動を行うかたわら、平壌に大成学校を設立するなど各地に学校を作って民族教育に従事した。 中国経由で再びアメリカに亡命し、興士団(フンサダン、)を組織した。1919年には亡命朝鮮人によって中華民国上海で設立された大韓民国臨時政府に参加し内務総長を務め、朝鮮独立運動を行う。しかし、地域派閥や党派の争いが絶えず、畿湖(京畿道と忠清道)出身でも両班でもなかったため、臨時政府内の主流とはなれず、彼の意見に耳を傾けるものはほとんどおらず、1921年に内務総長を辞任した。 その後は満州に渡り、独立運動の根拠地としての理想村を計画したが、1931年に満州事変が勃発したことにより頓挫。さらに、上海事変で日中間が軍事衝突をしていた1932年4月29日に、上海の虹口公園で尹奉吉が起こした上海天長節爆弾事件に関与したという嫌疑〔テロには断固として反対の立場だったにもかかわらず、首謀者である金九の直属の上司としてその責任を問われたと考えられている。一方では、実際に中華民国政府から犯行資金を受領するなど関与していたという説もある。〕で日本軍に逮捕され、朝鮮へ連行されたうえで懲役4年の実刑を宣告され服役していた。1935年に仮釈放となり隠居した。しかし1937年6月に発生したで逮捕されたが、収監中に病状が悪化し釈放されたが、肝硬変により京城帝国大学付属病院で死亡した。 特筆すべきは、前述の通り、他の独立運動家と異なり、テロによる武力行使等には一貫して反対し続けたことにある。「自我革新・民族革新」という標語を掲げたうえで、「貴方は国を愛しているのなら、何時貴方は健全な人格になるのか。私達の中に人物がいないのは、人物になろうと決心して努力する人がいないからである。人物がいないと慨嘆するその人自身が、何故人物になろうと勉強・修養しないのか〔ソウル市内にある島山公園の記念碑の言葉より。〕〔自分のもとを訪れた独立運動家が人材不足を嘆く言葉を発したたびに、決まってこの言葉で諭したと伝えられている。〕」という主張のもと、朝鮮人自身が近代国家としての力を養った上で、民族の実力を以ってして日本からの独立を勝ち取るべき、というスタンスを取り続けたことである。そのために彼は、 #男女共学の私立学校「漸進学校」等3校の近代的制度を取り入れた学校を設立。 #青年団体「青年学友会」や修養団体「興士団」を設立。 #近代的制度を取り入れた株式会社を設立し、出版等の産業振興を試みる。 #「新民会」を結成し、金九、呂運亨等といった明日の韓国を担うべきリーダーの育成に努める。 #アメリカ・ロシアに韓国人連携団体を設立し、生活改善運動を推進する。 といった運動を行った。 このように、自国の力不足を憂い、形の上での独立達成ではなく、それまでの韓国には存在しなかった近代化の概念を取り入れ続けて、他国にもひけをとらない近代国家に生まれ変わることを求め続けたこと、また、「(日本野郎)」という言葉を生涯一度も発さず、「(日本人)」という言葉を用い、打倒の対象である日本にまで敬意を表していた高邁な人格の持ち主としても知られ、現在に至るまで日韓両国の歴史家の間でも高い評価を受けている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「安昌浩」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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