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安東 連忠(あんどう つらただ、生没年不詳)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。豊後国戸次氏の家臣。通称は助八郎、舎人允、常陸介、孫兵衛尉、紀伊守〔なお、『柳河藩享保八年藩士系図』には記述がないが紀伊守と称したとする史料は『安東家系図』には記載がある。〕。剃髪後の入道号は雪貢〔『安東家系図』には道雪公より連字を賜る、助八郎、紀伊守、雪の字を賜り雪貢と号す。〕〔『柳河藩享保八年藩士系図・上』では雪貢は父の家忠の号と誤記している、実に雪貢は連忠の号とする『安東家系図』、中野等『立花宗茂』P22、23、48。〕。父は安東家忠。兄に連実、連善〔なお『柳河藩享保八年藩士系図』には安東連善の名が見られないが連善を兄とする史料は『安東家系図』には記載がある。〕、姉妹に由布惟定室。子に政弘。 藤姓安東氏は藤原氏の秀郷流の流れを汲むとされる、鎌倉時代以降に豊後を中心に九州北部に広がった一族。 戸次鑑連・立花宗茂に仕え家老を務める。兄連実が戦死し、後に鑑連が立花山城に移って以降に父家忠が隠居し、その家督を甥の連直が継承したが幼少の為に連忠が後見人となって名代や輔佐役を勤め、書状などの署名を行う、筑後遠征の筒川合戦(久留米合戦)も参戦して戦功を立てた。連忠は1000石を賜って分家し、立花氏が筑後国柳川に転封する際、約40町の領地を受領した。子孫は奥平松平家家臣となる。 また、『柳河藩享保八年藩士系図』の堀善右衛門系譜に掲載される天正14年(1586年)の連署知行打渡状の家老の連署の中に「安東紀伊入道雪貢」の名が見える。 == 脚注 == 〔 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「安東連忠」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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