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安濃津城の戦い(あのつじょうのたたかい)は、慶長5年8月24日(1600年10月1日) に安濃津城を巡って行われた戦い。関ヶ原の戦いの前哨戦の一つである。 == 経緯 == 慶長5年(1600年)、富田信高(安濃津城主)、分部光嘉(伊勢上野城主)、古田重勝(松阪城主)、稲葉道通(岩手城主)ら伊勢の諸将らは徳川家康の会津征伐に従軍していたが、西軍決起後の小山評定で家康に与力することを決意し、下野小山から急遽帰国し、西軍の到来に備えた。 信高と光嘉は同行して伊勢湾を船で横断したが、西軍に与した九鬼嘉隆の船団に捕捉されてしまった。 しかし、詳細は不明だが西軍に味方すると言いくるめたらしく、二人は伊勢国に上陸することができ、ひとまず各自自城に帰還することができた。 西軍は伊賀方面から東に進出してきたので光嘉は、信高と合流して安濃津城で西軍にあたることになり、加えて古田重勝にも援軍を要請した。 さらに信高は、関東に安濃津籠城の件を伝え、急ぎ家康に西上してもらうよう要請しようとしたが、九鬼嘉隆が海上を封鎖していたため、徳川との連絡は絶たれたままを余儀なくされた。 信高の兵、光嘉の兵、更に重勝の援軍500を加えても安濃津城に籠城する東軍はわずか1,700という劣勢であった〔宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P28〕。対するは毛利秀元、長束正家、安国寺恵瓊、鍋島勝茂らで構成する西軍は総勢3万にのぼった。 8月23日より小競り合いが始まり、8月24日(10月1日)朝より、毛利秀元、長束正家、安国寺恵瓊ら、1万余騎が北の愛宕山から、西・南方よりも包囲を狭めて本格的な合戦に突入した(『勢陽雑記』)。 光嘉は毛利家臣の宍戸元次と双方重傷を負うほど奮闘し、信高も自ら槍を振るって西軍にあたったが、群がる敵兵に囲まれたところへ、一人の若武者が救援に駆けつけ、危機一髪命を取り留めた。 「美にして武なり、事急なるを聞き単騎にして出づ、鎧冑鮮麗、奮然衝昌、衆皆目属す、遂に信高を扶く…」(「逸史」より)とあるこの武者は、信高の妻であった。 信高、光嘉らは健闘したものの、これ以上戦いを継続するのは困難であり、8月25日、木食上人が仲介となって西軍との和平交渉が成立し(吉川広家の降伏勧告を容れた、とも伝わる〔宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P29〕)、信高、光嘉は共に一身田の専修寺へ退き、信高は剃髪して高野山にのぼった〔宇神『シリーズ藩物語、宇和島藩』、P29〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「安濃津城の戦い」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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