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安田 辰昭(やすだ たつあき、1938年 - 2008年2月21日)は、日本の高校野球指導者、教員。小千谷高野球部監督、新発田農高野球部監督、新潟県高校野球連盟理事長などを歴任した。 == 経歴 == *新潟県佐渡郡〔雪深し169P、安田辰昭、ベースボール・マガジン社、1995年、ISBN 978-4583031910〕(現佐渡市)生まれ。佐渡農高、東京農業大学に進学する。1955年に小千谷高に社会科教諭として赴任し、野球部監督に就任する。 *当時の新潟県の高校野球界は、新潟商・長岡高などの新潟市勢・長岡市勢が強く、さらに新潟県を勝ち抜いても隣県・富山県との北越大会の壁が厚かったため、豪雪地の小千谷市からの甲子園出場など想像もできなかった。安田は「豪雪地から甲子園へ」を目指して選手を鍛えるが、甲子園出場を果たせないまま1966年に新発田農高に転勤となった。なお小千谷高はこの年の夏に新潟県大会・北越大会を勝ち抜いて、甲子園初出場(第48回選手権)を果たしている。 *新発田農高でも野球部監督を務めた安田だが、選手集めには苦労があった。しかし監督26年目の1980年夏に、念願の甲子園出場(第62回選手権)を果たす。この大会で4強に進出した天理高に対して堅守で渡り合い、延長戦の末に惜敗した。 *翌1981年夏にも、須藤辰弥投手を中心とした堅守のチームで、夏の甲子園(第63回選手権)に連続出場を果たす。広島商、東海大甲府を連破して、新潟県勢として初の全国大会2勝を果たした。 *その後は新潟東工高、新発田南高に勤務。1987年から1992年まで新潟県高等学校野球連盟の理事長を務めた。 *退職後はベースボール・マガジン社に勤務し、新潟県の高校野球関連の著書を執筆した。 *2008年2月21日、尿毒症のため死去。享年74。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「安田辰昭」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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