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安芸 国虎(あき くにとら)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。土佐国の国人。 == 生涯 == 享禄3年(1530年)、土佐安芸郡の領主・安芸元泰の子として誕生。 安芸氏の祖先は蘇我赤兄とされ〔出自に関しては他説も多い。〕現・高知県安芸市域を拠点として土佐七雄の一角に数えられた。安芸氏は代々土佐国守護を兼ねる室町幕府管領の細川京兆家当主より偏諱を賜っていた。国虎は安芸氏の慣例に倣い、細川高国より「国」の一字を賜り、国虎と名乗る。 永禄年間前期、長宗我部元親の家臣・吉田重俊が守護する香美郡夜須の領有権を巡り争いが起きる。〔夜須は本来は安芸氏の領地だったが、永禄初期に長宗我部氏との間で領有争いが起きていた。〕そうした中で馬ノ上村(安芸郡芸西村)の領有権を主張する安芸氏が軍を侵出させたことから長宗我部氏と敵対する事となった。永禄6年(1563年)に元親が本山氏を攻めるために主力を率いて本山に向かうと、義兄の一条兼定から3000の援軍を得て5000の大軍で岡豊城へ攻め込むが、重俊の奮戦もあり敗退した。国虎は再度の出兵を計画し、元親もまた国虎を攻めようと画策したが、一条兼定の仲介により、永禄7年(1564年)に元親と和睦した。 永禄12年(1569年)4月初旬、元親は国虎に岡豊に来訪して友好を深めようと使者を派遣したが〔「先年不慮の事出来て、互に確執に及び候ひぬ。然りと雖も、戦国の習なれば、必ずしも是を始終の怨敵といふべきに候はず。殊更一条殿の御扱にて合体せしむる上は争でか宿意あるべき。然るに近年中郡の筝劇に依りて、終に会釈に能はず。猶隔意あるに似たり。近々岡豊へ御来臨候へ。対面を遂げ、互に天神地祇を驚かし、誓約を固くして、骨肉同胞の睦をなし、過失相親しみ、患難相救ひ候べし」(『土佐物語』)。〕、これに対し国虎は使者の言葉を曲解して使者を追い返し〔「互に領分の境に出で誓約をなさんといははさもあらんか。然るに我を岡豊に来れとは降参せよとにや」と言い、家格や所領の優越を誇ったという(『土佐物語』)。〕、重臣の黒岩越前の諫言〔黒岩越前は一条の援軍など頼むに足らず、しかも伊予西園寺氏と敵対しているので軍は動かせないと実情を説いたが国虎は無視した。〕も聞かずに和睦を破り義兄の兼定とともに元親を討伐しようとした。しかし元親は本山氏をすでに服従させて勢力を増強させており、7月に元親は7000の兵を率いて安芸領に侵攻。対する国虎も5000の兵を率いて、安芸城、新荘城、穴内城などの防備を固める。しかし、八流の戦いで大敗してしまい城も悉く落とされてしまう。国虎は安芸城に籠城したが、譜代の家臣らの多くが元親に内応〔『安芸家譜略紗』では譜代の横山紀伊・岡林将監・専当氏・専光寺右馬允・小川新左衛門・小谷左近右衛門らが裏切り、北の搦手から元親軍を導いたという。〕したため防衛は困難な情勢となる。それでも24日間にわたって抗戦したが、兵糧も尽き、一条氏からの後詰も無く、城内の井戸に毒を入れられるなどの調略により落城寸前になったため、家臣と領民の命と引き替えに自害することを元親に申し入れた。さらに正室を土佐一条家に送り返して遺児の千寿丸を阿波国に落としたあと、8月11日に菩提寺の浄貞寺に入って自害した。享年40。このとき、重臣の多くが国虎の後を追って殉死した〔老臣の有沢石見が殉じたのをはじめ、諫言を無視された黒岩越前も正室を一条家に送り返したあとの国虎の初七日に自殺し、北川玄蕃は国虎の死後に元親の軍と戦って戦死した。〕。 その後、元親は安芸氏の所領をことごとく平定し、実弟の香宗我部親泰を安芸城に入れて安芸氏の名跡を継がせようとしたが、家臣に反対されたため安芸守を名乗らせたという。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「安芸国虎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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