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安藤 緑山(あんどう ろくざん、明治18年(1885年)? - 昭和30年(1955年)は大正から昭和初期の彫刻家。本名は萬蔵。萬造、萬象の号を使用したという〔中村雅明 「超絶技巧の世界1 象牙彫刻」(『目の眼』179号、1991年9月)。〕〔ただし、これら記述は中村以外の文献資料には見当たらず、裏付けは取れていない。ただ、「萬象」の彫名が入った作品があることから、彫象と号したのは間違いないようだ(小林(2014)p.18)。〕)。 ==生涯== 生涯や詳細な人物像など、彼にまつわることはほとんど不明である。わずかに残っている情報によれば、師匠は大谷光利で〔『東京彫工会史』昭和2年刊。〕、東京彫工会に所属し、明治43年(1910年)、大正10年(1921年)とその翌年には、下谷御徒町(現在の台東区西部)に住んでいた〔「東京彫工会会員役員人名録」。〕。また「緑山乍」銘には、「金田記」「金田」の銘が併記される作品が見られ、この金田は明治から大正期の牙彫家・牙彫商の金田兼次郎だと考えられる〔五味聖 「珍品ものがたり」(『珍品ものがたり』展図録、宮内庁三の丸尚蔵館、2012年)。〕。緑山が金田に直接師事したという記録はないが、展覧会への出品は金田によってなされており、両者が浅からぬ関係だったことが窺える。緑山作品の伝来をたどると、皇室関係者に行き当たる例が幾つかあり、緑山の牙彫は国内のごく限られた富裕層が愛玩したものと想像される。 象牙彫刻(牙彫〔げちょう〕〔象牙の項を参照。現在は、牙彫師は東京や京都で数えるほどの人数しか存在しない。象牙の取り引きはワシントン条約で禁止されているため、条約締結前の象牙を使わざるを得ない。〕と呼ばれた)の分野で活躍し、野菜や果物を中心に多くの作品を制作した。現存している物だけでも50数点以上あり、安藤の最高傑作言われる「竹の子と梅」は清水三年坂美術館に収蔵され展示されている。牙彫は江戸時代に始まり、明治期に外貨獲得の国策として海外に輸出されはじめたことから、「牙彫ブーム」と呼ばれる最盛期に突入した。しかし、大正になると牙彫の難しさ(素材を削り取る彫刻スタイルのため、完成するまでの時間が非常にかかる)から、ブームは沈静化。安藤はそのような時期に牙彫に挑んだ彫刻家だった。 安藤の彫刻で最大の特徴は、"色つけ"である。当時の美術界では牙彫の王道である"白地の肌合い"が主流だったが、緑山は「象牙に着色すると色が滲んで独特の味わいを持つ」という彼独自の流儀を持っていた。しかし、主流から外れた制作態度は異端視され、その高い技巧ほどには評価されなかった。加えて、彼自身も気難しい性格で人との交渉を嫌ったため、弟子を全く取らず、「安藤緑山一代限り」とのポリシーを持っていた。その技巧は長らく謎とされていたが、X線透視検査によって1本の象牙に丸彫するのが基本とされた牙彫において、複数の牙材をネジなどで接合することで大作の牙彫を実現していることが明らかとなった。また蛍光X線分析によると、有機系着色料ではなく金属を主成分とした無機系着色料が主に用いられた可能性が高いという。更に顕微鏡による細部観察によって、彫りの段階で細部まで完成させてから着色しており、場合によっては着色後に部分的に彫りや削りを施すことで、素地の白色を露出させる技法を用いているのが見て取れる〔小林(2014)pp.20-22。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「安藤緑山」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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