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安達 盛宗(あだち もりむね)は、鎌倉時代中期の武将。鎌倉幕府御家人。安達氏の一族で、安達泰盛の子。 == 生涯 == 北条氏得宗家当主・鎌倉幕府第8代執権・北条時宗より偏諱を受けて盛宗と名乗る〔得宗家は本来ならば将軍の下で一御家人という立場にありながら、烏帽子親関係による一字付与を利用して、他の有力御家人を統制したことが指摘されており(紺戸淳 「武家社会における加冠と一字付与の政治性について」(『中央史学』二、1979年) および 山野龍太郎「鎌倉期武士社会における烏帽子親子関係」(所収:山本隆志 編『日本中世政治文化論の射程』(思文閣出版、2012年)p.163))、その統制の主体である烏帽子親、すなわち有力御家人が一字を賜る相手が将軍から得宗家へ移行したという見解も示されている(角田朋彦 「偏諱の話」(『段かづら』三・四、2004年) および 山野龍太郎「鎌倉期武士社会における烏帽子親子関係」(所収:山本隆志 編『日本中世政治文化論の射程』(思文閣出版、2012年)p.163)(→詳細は北条氏#北条氏による一字付与についてを参照)。よって、安達盛長以来幕府の信任を得て有力御家人となっていた安達氏(『世界大百科事典 第2版』・「安達氏 」の項)もその統制下にあり、同じく北条氏と縁戚関係を結んでいた足利氏のケース(田中大喜 編著『シリーズ・中世関東武士の研究 第九巻 下野足利氏』(戎光祥出版、2013年))と同様に、泰盛が北条泰時、宗景・盛宗兄弟が北条時宗、貞泰が北条貞時、高景が北条高時から一字を拝領したと考えられる。足利氏において通字の「氏」が付かない足利家時について「時」の字が北条氏からの偏諱であることが指摘されており(小谷俊彦 「北条氏の専制政治と足利氏」(田中大喜 編著『シリーズ・中世関東武士の研究 第九巻 下野足利氏』(戎光祥出版、2013年)、p.131))、「時」を通字としない安達氏においても、時盛、時顕が同じケースと考えられ、年代的に時頼、貞時から賜ったものとみられる。〕。 建治3年(1277年)6月19日、検非違使に任官されて武家の正装白襖(直垂)で出仕する。 文永の役の後、再度の蒙古襲来に備えて建治2年(1276年)に父・泰盛が守護となった肥後国の守護代として盛宗が九州に下向し、弘安4年(1281年)6月の弘安の役で現地の武士達の指揮官を務め、弘安8年(1285年)正月に泰盛による弘安改革で戦後処理のために設置された「鎮西特殊合議訴訟機関」(鎮西探題の前身)での実務にあたった。 同年11月17日、泰盛と内管領・平頼綱の対立による霜月騒動で安達一族が滅ぼされると、北九州にいた盛宗は少弐景資と共に岩門城に籠もり、頼綱方である景資の兄・少弐経資の軍勢と戦って敗死した(岩門合戦)。 蒙古襲来絵詞には、季長の軍功報告を受ける盛宗の姿が描かれている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「安達盛宗」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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