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安達盛長 : ミニ英和和英辞書
安達盛長[あだち もりなが]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [たち, たっし]
  1. (n-suf) plural suffix 
: [おさ]
 【名詞】 1. chief 2. head 

安達盛長 : ウィキペディア日本語版
安達盛長[あだち もりなが]

安達 盛長(あだち もりなが)は、平安時代末期、鎌倉時代初期の武将。鎌倉幕府御家人。鎌倉時代に繁栄する安達氏の祖で、源頼朝流人時代からの側近である。
尊卑分脈』では小田野三郎兼広藤原北家魚名流)の子としているが、盛長以前の家系は系図によって異なり、その出自ははっきりしていない。足立遠元は年上の甥にあたる〔『尊卑分脈』では盛長が「安達六郎」、遠元の父・遠兼が「安達藤九郎」と記され、盛長は遠兼の兄としている。盛長は正治2年(1200年)に66歳で没しているため、保延元年(1135年)生まれである。遠元は生没年不詳であるが、孫の藤原知光が仁安3年(1168年)生まれであることから、この段階で若く見積もって30代後半と考えられ、1130年代前半の生まれと推測される。したがって遠元は盛長よりも年長であり、『尊卑分脈』の兄弟順は逆で、実際の名乗りは遠兼が「六郎」、盛長が「藤九郎」であったと見られる。〕。盛長晩年の頃から安達の名字を称した〔『吾妻鏡』正治元年10月27日条「足立藤九郎入道」、同28日条「安達藤九郎入道」〕。
== 生涯 ==
源頼朝の乳母である比企尼の長女・丹後内侍を妻としており、頼朝が伊豆の流人であった頃から仕える。妻がかつて宮中で女房を務めていた事から、藤原邦通を頼朝に推挙するなどに知人が多く、京都の情勢を頼朝に伝えていたと言われている。また『曽我物語』によると、頼朝と北条政子の間を取り持ったのは盛長とされる。
治承4年(1180年)8月の頼朝挙兵に従い、使者として各地の関東武士の糾合に活躍。石橋山の戦いの後、頼朝とともに安房国に逃れる。その際、下総国の大豪族である千葉常胤を説得して味方につけた。頼朝が再挙して、鎌倉に本拠を置き関東を治めると、元暦元年(1184年)の頃から上野国奉行人となる。文治5年(1189年)、奥州合戦に従軍。頼朝の信頼が厚く、頼朝が私用で盛長の屋敷をしばしば訪れている事が記録されている。
正治元年(1199年)1月の頼朝の死後、出家して蓮西と名乗る。同年4月、二代将軍・源頼家の宿老として十三人の合議制の一人になり、幕政に参画。その年に三河国守護となっている。同年秋に起こった梶原景時の弾劾(梶原景時の変)では強硬派の一人となり、翌年の正治2年4月26日1200年6月9日)に死去。享年66。生涯官職に就く事はなかった。
安達盛長の屋敷は現在の甘縄神明神社にあり、神社の前に「安達盛長邸址」の石碑が建っている。ここは、北条時頼の母、松下禅尼の実家であり、北条時宗の誕生の地でもある。また、霜月騒動の際に安達泰盛が攻められ、滅亡したところでもある。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「安達盛長」の詳細全文を読む




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