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安 重根(日本語読み;あん じゅうこん、朝鮮語読み;アン・ジュングン、朝鮮語表記:、1879年9月2日〔旧暦では1879年7月16日。〕 - 1910年3月26日)は、大韓帝国時代の朝鮮の独立運動家〔で、前韓国統監の伊藤博文を、1909年10月26日に満州のロシア権益のハルビン駅構内で襲撃して殺害した暗殺者である。ロシア官憲に逮捕されて日本の関東都督府に引き渡され、1910年3月26日に処刑された。(テロリストか義士かの評価については下記) == 生い立ち == 現在は北朝鮮にある黄海道の道都海州府首陽山の両班の家に三男一女〔上から重根・定根・恭根。女子名は不詳。〕の長男として生まれた。本人執筆の自伝によると、性格が軽急に近いので名(諱)を重根(、ジュングン/チュングン)と、胸腹に黒子が7箇所あったので字は應七(、ウンチル、日本語読みでは「おうひち」)と名づけられたと言う。実名敬避の習慣から通常は、安應七(アン・ウンチル)を名乗っていた。本人が重根を使い始めたのは暗殺事件の直前である〔。 安の生家は資産家で、多数の土地から小作料を取って生活する大地主(地方両班)であり、祖父・安仁寿が鎮海県監を務めるなど、地元の名家でもあった。父・安泰勲(三男〔兄弟は六男三女。上から泰鎮・泰鉉・泰勲・泰健・泰敏・泰純。三人の姉妹は女子名は不詳。〕)は幼少より英才として知られ、科挙を受けて進士に合格し、京城で開化派〔朝鮮を清国の属国から脱しさせて、日本の力で近代化しようとした派閥。現在の韓国では親日派と見なされているが、安泰勲もこれに属していた。〕の朴泳孝が選抜した70名の海外留学生に選ばれたが、1884年、甲申政変で開化派が失脚した影響で、学生も排斥され、立身の道を閉ざされた。この際に、仁寿は家財を売り一族を連れて信川郡青溪洞に移住して難を逃れている。また泰勲は朝鮮では当時西学や天主教と呼ばれていたカトリックに改宗し、洗礼名はペテロとした。 仁寿は教育に熱心で、6歳の應七を漢文学校に入れ、次いで普通学校で学ばせたが、14歳の時にこの祖父が亡くなると、應七は半年間学業を中断。父母と教師が、銃と狩猟を好み山野に入り浸る應七を叱責して学校には戻ったが、自伝によると項羽の故事成句を引用して「書は以て姓名を記するに足る」と友人に言い、父の様に学業で身を立てないと言っていた。應七は不学をむしろ誇り、長じて、狩猟、銃、飲酒、歌舞、妓生、義侠を好む浪費家となった。 1894年、16歳の時に金氏〔当時の朝鮮では女子名を記録する習慣がなかったので、一般には姓のみを記した。〕(キム・アリョ)を妻に娶り、後に二男一女をもうけた。またこの年に甲午農民戦争(東学党の乱)があった。泰勲は東学党が郡内で外国人排斥や官吏を殺害して暴れまわっていたのを憂い、70名余の私兵を集めて自警団(所謂、民包軍〔民包軍は守城軍とも言うが、朝鮮の官側に立った富裕層が主導とする民間の部隊で、乱の鎮圧にあたった官兵や日本兵を助けて、主に農民からなる民族主義的な東学軍の勢力を孤立させた。〕〔の1つ)を組織して青溪洞に避難民や宣教師を保護した。東学党・農民軍とも戦ってこれを撃退し、應七もこの時重傷を負ったというが後に全快した。しかし翌年、泰勲が東学党から奪った軍糧が、もともと魚允中〔李氏朝鮮末期の政治家。当時は度支部大臣だった。〕や閔泳駿の年貢米だったということで、国庫金の掠奪であると訴えられ、行賞されるどころか逆に賊の汚名を着せられた。泰勲は京城に赴き、法官に三度無実を訴えたが、聞き入れられず、判決もでなかった。そのうちに閔氏の手勢に襲撃され、安一族はパリ外国宣教会から派遣されていたフランス人のジョゼフ・ウィレム〔。〕(、 韓国名: 洪錫九)〔빌렘 , 천주교서울대교구,가톨릭인터넷 굿뉴스(天主教ソウル大教区、カトリックインターネットGoodnews), 2010年2月8日閲覧。〕司祭に匿われた。この一件の後、泰勲は布教に熱心になり、應七も洗礼を受けて〔안중근 , 천주교서울대교구,가톨릭인터넷 굿뉴스(天主教ソウル大教区、カトリックインターネットGoodnews), 2010年2月8日閲覧。〕17歳で改宗し、洗礼名を「トマ(トマス)」とした〔笹川紀勝「安重根の平和論」NPO現代の理論・社会フォーラム『NEWS LETTER』2009.12, Vol.2-12(通巻23号) 〕。 應七は熱心な信者となって、洪神父から数か月フランス語を学んで見識を広げたので、洪神父と西洋教育(科学)の大学校を開こうと相談した。それを閔主教に掛け合ったが、「韓国人にもし学問があっても信教によいことはない」と拒絶された。再三の要請が拒否された後、應七は厭いてしまい、「日本語を学ぶ者は日本の奴隷になり、英語を学ぶ者は英国の奴隷となる。もしフランス語を習得すればフランスの奴隷になるのを免れるのは難しい。もし韓国の威が世界に振るえば、世界の人も韓国語を用いることになる」から必要ないとして外国語学習を辞めてしまった。 この頃、2つの刑事事件に関与した。1件は韓国人の官吏と軍人に搾取されていた友人を義侠心から助けようとして失敗したもので、もう1件では、病気の父泰勲を診察した清国人医師が、反清勢力である開化派であったとして飲んだ勢いで父に殴る蹴るの乱暴をしたというので、應七は怒って殴り込みをかけて相手を殴打した上に短銃を発砲して逃走したというものだった。この清国人は官憲に訴えて應七を逮捕させようとした。当時の韓国は外国に領事裁判権を認めており、清国領事は京城の外務部にこの事件を主管することを訴えていたので、應七は外務・法務大臣の李夏栄に嘆願してこの件が鎮南浦裁判所に回されるように手を回してもらった。韓国の裁判所では自国民に有利な判決がでるため、清国人は仲裁に応じて和解して、結局は事なきを得た。 1904年、日露が朝鮮半島などの植民地領有を巡って争った日露戦争が勃発したが、應七は日露の何れが勝っても韓国はその勝者の属国であると行く末を悲観。他方で應七は宣戦布告の文面にある「東洋の平和を維持し、韓国の独立を強固にする」ためとする建前を信じていて、その大義を日本が守らないのは全て政治家が悪いのであり、伊藤博文の策略のせいであると考えていた、と自伝にある。しかし伊藤の勢力が今は強くこれに抵抗しても徒死するだけで無益だと、應七と泰勲は話し合い、清国の山東半島や上海には韓国人が多数居留していると聞いていたので、安一族も外国に亡命して安全を図るべきだと考えて、應七がまず下見に行くことになった。ところが、上海で旧知の郭神父が帰国するのに遭遇し、フランス人の彼により朝鮮民族(韓民族)の危機を諭され、外国に逃げたり、外国の力を借りて民族独立を計ろうというのは間違いであると指摘されて、大韓帝国の独立について二千万の同胞(朝鮮民族)が団結するべきという意見を持つようになったと言う。1905年、泰勲らは娘の嫁ぎ先や應七の妻の実家があった平安南道鎮南浦に引っ越していたが、12月、應七が帰国した頃には父はもう亡くなっていた。應七は父が死んだとの凶報を聞いて数回気絶したと自伝に書いている。父を青溪洞に葬った後、應七は大韓独立の日まで日常の飲酒を辞め、断酒をすることを決心した。 1906年、私財を投じて三興学校と敦義学校という2つの学校を設立した。1907年、父の知人金進士から白頭山よりも北方にある間島や海参蔵(ウラジオストク)には韓人百数万人が居留して物産豊富であると教えられて、應七はロシアの地で事業を起こすことを考えるようになったが、先に資金を調達すべく平壌で友人の安秉雲らと石炭商を営み始めた。しかしこれに失敗〔自伝には具体的には書かれていないが”日本人の妨害”により失敗したとされ、日本政府の調査によれば、安秉雲と仲たがいしてこれ以上の出資を拒まれたため、安は秉雲を殴打し、さらに抜刀して脅迫で損害金を奪ったとされている。( 伊藤公遭難事件調査報告書 )〕し、数千元という多額の金を失った。應七はこの頃、国債報償運動にも参加して大韓帝国が負った日本からの強制円借款の返済を目指していたが、探偵にきた日本人巡査と議論して殴られ、喧嘩した話が自伝にある。 この年の7月、伊藤博文が訪韓して第三次日韓協約が締結され、第二次日韓協約(1905年)にも内心では反感を持っていた高宗の指示により第2回万国平和会議へ派遣されていた密使が抗議活動をして、所謂ハーグ密使事件が露見し、高宗は強制退位となり、皇太子に譲位するという一連の展開があった。軍隊解散とそれに伴う義兵闘争の高まりの中で国内が不穏となると〔自伝には、少なくともこの頃に国内で義兵闘争に加わっていたとは一言も書かれてない。〕、應七は急に家族を置いて、安多黙と名乗って友人李照夏と共に間島へ渡った。なお「多黙()」は洗礼名トマの当て字である。しかし間島にも日本軍が進出していて、足の踏み場もないような状態だったので、各地方を視察した後、夏の終わりにロシア領に入ってウラジオストクに到着した。ここで青年会に参加して喧嘩で耳を負傷した。 ウラジオストクで知り合った李範允は、間島管理使として清国と戦い、日露戦争時にはロシアに協力して亡命中の人物で、應七は大韓独立のために兵を起こし伊藤を倒そうと議論したが、李に財政的準備がないと最初は拒否された。しかし別に厳仁燮〔崔才亨の女婿という。〕と金起龍〔自伝では金起龍。日本政府の調査書によると字は燦淵。同調査および安の供述によると泰勳とも称したとされる。元は平壤警察総巡 (警部) から平安北道警務官 (警視)となった人物。〕という2人の義侠と知り合ったので、彼らと義兄弟の契りを結び、厳を長兄・安を次兄・金を末弟とし、3人で韓国人を相手に義を挙げる演説を各地で行った。彼らは「日露が開戦した時に宣戦布告文で東洋平和の維持と韓国独立を明示しながらその信義を守らず、反って韓国を侵略して五箇条条約や七箇条条約を課し、政権掌握、皇帝廃位、軍隊解散、鉄道、鉱山、森林、河川を掠奪した」と日本を非難し、それに怒った「二千万の民族が三千里の国内で義兵として蜂起しているが、賊は強く義兵を暴徒と見なして殺戮すること十万に至る」と苦境を訴え、日本の対韓政策がこのように残虐であるのは「日本の大政治家で老賊の伊藤博文」のせいであり、伊藤は韓国民は日本の保護を受けて平和であると「天皇を欺き、外国列強を欺き、その耳目を掩うて」奸計を弄しており、よって「この賊を誅殺しなければ、韓国は必ず滅び、東洋もまさに亡びる」と演説して伊藤暗殺の同志を募り、一方で独立運動の火が消えてしまわないように義兵運動の継続も訴えたので、これに応じる者、あるいは賛同して資金を出す者があり、金斗星(金都世)〔や李範充等と300名の義兵を組織することができた〔自伝にははっきりとは書いてないが、これが後に安が主張する「大韓義軍」である。自伝を読む限りにおいても、咸鏡北道からの退却ですでに解散状態であり、事件時にはすでに軍隊どころか武装勢力としての体裁もなしていない。〕。これをもって、1908年6月、咸鏡北道に進入して日本軍と交戦したと、自伝には書かれている。日本軍人と民間人とを捕虜としたが、万国法で捕虜の殺戮は禁止されているから釈放すべしという安と、日本人を殺しに来たのにそれをしないのはおかしいという仲間と口論して、部隊を分かち別行動をしたところで日本軍に襲撃されて散り散りになってしまう。その後、集結するも6、70名程度に減り、食料が無くなり、村落で残飯を恵んでもらう有様となり、仲間を探している途中で再度伏兵狙撃にあって部隊は四散した。数名で苦労して豆満江に戻ってきて、本人の言うところの「敗軍の将」として生還した。 1909年正月、同志12名〔日本の新聞では14名。〕〔安應七、金基龍、姜起順、鄭元柱、朴鳳錫、柳致弘、曹順応、黄吉秉、白南奎、金伯春、金天化、姜計讚。〕と共に「断指同盟」を結成して薬指を切り(指詰め)、その血で大極旗の前面に「大韓獨立」の文字を書き染めて決起した。(日本政府の調査では、1908年4月頃に厳仁燮と金起龍と義兄弟になった際に、外2名〔李珍玉とハン・ソンキン(漢字不明)という人物と言う。ただし安は後述の尋問において、李珍玉は日本語通訳だが無関係で、ハン・ソンキンなる人物は名前も聞いたことがないと答えている。〕と共に盟約して、安と厳が伊藤博文の暗殺を、金らが李完用・朴斉純・宋秉畯の暗殺をすることに決めて、左手の薬指(無名指)を切ったという別の話を載せている〔が、旅順監獄での警視の尋問に答えて4名での断指を否定し、12名であると言い、義弟で断指同盟の1人でもある金基龍と金起龍は別人で、金起龍は目的の達成を諦めて今は農業に従事していて事件には関与していないと主張した。〔(国史編纂委員会)〕) 大東共報(海朝新聞〔崔鳳俊が創刊した新聞。明治40年に創刊したが直後に廃刊となったために、義兄弟の崔才亨が大東共報と名前を変えて創刊した。〕)の李甲が友人であったので、3月21日付紙面に安應七名義で寄稿し、大韓帝国の国権回復のために同胞に団結を訴えた。国内外に同志を派して情勢を探り、同年9月頃、伊藤博文を暗殺することになった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「安重根」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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