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完器講(完器講)は、富士大石寺から分かれた日蓮系仏教宗派。 江戸末期、堅樹院日好の流儀を信ずる一派が起こした講である。 堅樹院日好は、江戸時代後期の明和9年(1772年)に日蓮宗日朗門流から富士大石寺に帰伏したが、まもなく大石寺批判を重ねるようになった。日好の教義の要点は 「大石寺は折伏をせずして、自行の研鑽に明け暮れているので法水が濁っている」 「四箇の格言を妙法と一緒に唱えることが大事である」 「我こそ大聖人・日興上人の正統である」 「御本尊は折伏を行ずる者の胸中にある」との「己心本尊説」 との4点であった。 このような布教が明和七年(1770年)、江戸幕府の「自讃毀他の説法御停止」の法令違反として、幕府の取り締まりの対象となり、主導者であった日好は37才で投獄・流罪に処せられる。 はじめは三宅島に、次いで利島に流されて在島38年の後、文化9年(1812年)に74歳で死去。 その後、堅樹日好の教義は、日好門下の臨導日報が受け継ぎ、勢洲亀山藩(三重県亀山市)の後藤増十郎とその妻つき(妙聴)が中心となり、江戸に完器講を作り、堅樹流をひろめた。 彼らも日好と同じく、四箇の格言を強く唱え、また大石寺を弱腰なりと攻撃した。しかし、嘉永元年(1848年)4月、日好と同じく江戸幕府の『自讃毀他禁止』の法令により捕らえられ、増十郎もまた三宅島に遠島流罪。明治3年(1870年)に赦免されたが間もなく死去。死後は妻・妙聴が中心となって、信徒も、東京でふえ「完器講」は勢力を広げた。 これに対して日蓮正宗大石寺52世鈴木日霑が「異流義摧破抄」を著して反撃。 これに日報が「聖語明鏡顕魔論」を著して反論。 さらに鈴木日霑が「叱狗抄」を著して再反論。 日報はその後、1873年(明治6年)に死去。 この日報の門下にした佐野広謙(妙寿日成尼)と富士本智境(日奘)の二人の僧侶が、日報の死去後、明治8年(1875年)に大石寺の隠居法主・鈴木日霑へ帰伏。 佐野広謙(妙寿日成尼)・富士本智境(日奘)の二人が完器講の人たちに大石寺帰伏を説いて廻り、これによって、完器講の人たちが徐々に大石寺に帰伏。 その結果、完器講は、堅樹日好から百数十年を経た明治中頃に消滅している。 その後、佐野広謙(妙寿日成尼)の門下からは、日蓮正宗大石寺59世堀日亨、日蓮正宗大石寺62世鈴木日恭の二人の法主が出ている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「完器講」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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