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宍戸 元続(ししど もとつぐ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。毛利氏の家臣。安芸宍戸氏第14代当主。安芸五龍城主。宍戸元秀の嫡男、宍戸隆家の孫。広匡、就俊、元高の父。主君の毛利輝元は父方では従伯父、母方では従兄に当たる。 == 生涯 == 文禄元年(1592年)、祖父の宍戸隆家が没し、廃嫡された父に代わり家督を継ぐ。文禄4年(1595年)、豊臣秀吉により豊臣姓を下賜された。 朝鮮出兵では毛利軍として朝鮮に渡海し、蔚山城の築城に携わった。慶長2年(1597年)9月の稷山の戦いで毛利軍の先鋒を務め、同年末から翌年初めにかけて起こった蔚山城の戦いでは加藤清正らと共に食料不足の中での籠城戦を戦い抜き、毛利秀元・吉川広家らの来援を得て明軍に勝利した。 慶長5年(1600年)、石田三成率いる西軍陣営と徳川家康率いる東軍陣営の対立が激化し、ついには家康の会津征伐を契機に合戦となる。元続は主君の毛利輝元が西軍の総大将に祭り上げられることに不安を覚え、吉川広家・福原広俊・益田元祥・熊谷元直らと談合、反対するも聞き入れられず、止む無く西軍として軍勢を率いることとなる。関ヶ原前哨戦の伊勢安濃津城の戦いにおいて、広家・秀元らと共に勇戦し、負傷するも安濃津城を開城させることに成功する。 しかし肝心の関ヶ原の戦いでは不戦敗となり、輝元は周防・長門2ヶ国に減封、元続も父祖伝来の地である五龍城を去り、萩に移住することとなった。後に一門家老の筆頭となり、周防佐波郡右田(現在の防府市)に11,000石を与えられる。 大坂の陣では輝元・秀元らと相談の上で、弟の内藤元盛に「佐野道可」の変名を名乗らせて密かに大坂城に送り込んだ。戦後にこれが発覚すると、その処理に奔走した。元和元年(1615年)に嫡男の広匡に家督を譲り隠居、寛永8年(1631年)に死去した。享年69。 寛永2年(1625年)に孫の宍戸就尚が毛利元倶と右田と熊毛郡三丘を交換し、宍戸家は一門三丘宍戸家として続いた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「宍戸元続」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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