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深瀬 隆兼(ふかせ たかかね)は、戦国時代の武将。安芸国国人領主・宍戸氏一族。安芸国祝屋城主。 == 生涯 == 元々は宍戸隆兼と名乗っていた(「隆」の字は大内義隆より偏諱を与えられたものである)。永正元年(1504年)に父の元家が隠居し祝屋城に移り住むとこれに従い、地名を取って深瀬の苗字を名乗り、祝屋城主となった。弟の家俊(のちの司箭院興仙)を養子としたが、家俊は山伏のように修験道の修行に明け暮れ、出奔の後に細川政元に仕えた。 天文9年(1540年)6月、出雲国の戦国大名・尼子氏を見限って、周防国の戦国大名・大内氏に寝返った毛利元就を討つべく、尼子氏当主・尼子詮久(後の尼子晴久)の命で新宮党の尼子久幸、尼子国久、尼子誠久らが大軍を率いて備後路を南下、祝屋城に迫った。隆兼は城の眼前の犬飼平や可愛河岸の石見堂の渡しを中心に防衛線を張り、尼子軍を食い止めた。予想外の抵抗に手を焼いた尼子軍は、この方面からの侵攻を諦め撤退した。 没年は不詳。家督は嫡男の深瀬家兼(いえかね)が継いだ。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「深瀬隆兼」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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