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宗田 理(そうだ おさむ、1928年5月8日 - )は、日本の作家、小説家。 東京都世田谷区生まれ、愛知県西尾市一色町出身。愛知県名古屋市東区在住。日本大学藝術学部映画学科卒。子供や老人などの視点から社会の矛盾を鋭く指摘するといった作品を多く発表し、若い世代を中心に人気を博している。 また、ライトノベルと呼ばれる小説群を手掛ける作家とは世代的に異なるものの、過去にはライトノベルのレーベルから作品を発表しており、広義の意味でライトノベル作家の範疇に含める場合がある。 == 経歴 == 東京都世田谷区代田橋生まれ。父親は医院を経営する医者だったが、理が小学生の頃に亡くなり、それを機に母親の実家のあった愛知県一色町へと移る〔「宗田文書」アスキー刊、「ぼくら」研究会著〕。 戦後間もなく友人と出したガリ版による同人誌にて『涅槃』という最初の作品を書く。当時のペンネームは漠蕪愚(ばくぶぐ)。アメリカ映画に衝撃を受け、やがて映像の時代が来るとの思いから日本大学藝術学部映画学科に入学し、実習の創作としてシナリオを書く。その時に書いた『雲の果て』(1991年に刊行された『雲の涯』の基となる)という作品が、講師として来ていた松竹映画専属のシナリオライター八木沢武孝の目に留まり『江古田文学』に掲載するよう推薦されたが、その頃の文芸学科の学生たちには「シナリオは文学ではない」という風潮が強く掲載を拒否された。しかし『江古田文学』には映画学科からも製作実習費が出ていたことから映画学科の学生たちが抗議し、映画学科からは宗田の作品だけが何とか掲載された。その後、八木沢の依頼で助手をするようになり、やがて摂津茂和原作の映画『台風息子』(東映)の脚色の下書きなどを書くようになる。当時はまだ無名だったため、八木沢武孝のクレジットで配給されている。 その後八木沢の仕事が減ってきたこともあり、大学時代に教授から勧められて参加を約束していた、森脇将光の出版事業「森脇文庫」の編集業に加わる。まず森脇の手記を出版するように言われたものの、それまで一度も本を作ったことがなく編集について何も知らなかったため、印刷屋から組み付けの手ほどきを受ける。その後、森脇から週刊誌を出すように言われ創刊した週刊誌『週刊スリラー』の編集長を務める。高利貸の帝王として名を馳せていた森脇に集まる裏社会の人間を見てきたことが、後の作品作りに役立つことになる。この頃、柴田錬三郎や水上勉、高木彬光、松本清張などの作家と出会い、良い作品を書いてもらおうと取材や資料集めなどで協力する。政界の裏側を調査した機関の実務者でもあり、造船疑獄の発端となった「森脇メモ」は、宗田の手で記されたとされている〔。森脇が森脇文庫を突然やめると、宗田は数人と共に企業のPR会社を興し、主に自動車会社のPR誌などを作るようになる。自動車に詳しくなり、梶山季之や清水一行に資料の提供や取材などで協力するようになる。 1970年後半にカズノコが高騰し、その原因を調べるうちに水産業界の裏の実態を知り、これをテーマにした『未知海域』を発表。この作品が情報小説として高く評価され、1979年に直木賞候補となり、これをきっかけに小説家として活動するようになる。 新聞(東京タイムズ)で連載した『少年みなごろし団』がトクマ・ノベルズから刊行されると、大人向けに書いたものであるにもかかわらず子供に受け、そのうちの一人である当時小学生だった角川書店の編集者の娘からの推薦がきっかけで声が掛かり、後に人気シリーズとなる『ぼくらの七日間戦争』を書くに至る。 当時の宗田自身は、シリーズ2作目である『ぼくらの天使ゲーム』は『ぼくらの七日間戦争』の続編という位置付けでありシリーズ化は考えていなかったが、『ぼくらのデスマッチ』の頃からシリーズとしての意識で書き続けていくことになる。中学生たちが主人公であるこのシリーズは当初、1学期に1冊のペースで3年間書けば終わるだろうと考えていたが、シリーズが続くにつれ評判が高まり、多くの読者からの要望によりシリーズ最終作と思われた『ぼくらの最終戦争』以降もシリーズは継続されることになる。ぼくらシリーズは2001年までに累計発行部数が1500万部を数える。 『ぼくらの七日間戦争』、『ぼくらの秘島探検隊』、『仮面学園殺人事件』、『ほたるの星』は映画化されている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「宗田理」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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