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定康王 : ウィキペディア日本語版
定康王[ていこうおう]

定康王(ていこうおう、生年不詳 – 887年)は新羅の第50代の王(在位 : 886年 - 887年)であり、姓は金、は晃。第48代の景文王の第二子〔『三国遺事』王暦では閔哀王(第44代、在位 : 838年 – 839年)の同母弟と記しているが、在位年に50年の開きがあるので、『三国史記』新羅本紀・定康王紀による系譜が正しいとされている。→井上訳注1980 p. 387 注36.〕であり、先代の憲康王の同母弟。母は第47代の憲安王の娘の文懿王后〔『三国史記』新羅本紀・憲康王紀による。また、『三国遺事』王暦・憲康王条では、憲康王の母を文資皇后とする。〕。886年7月5日に先代の憲康王が死去し、その子ども(後の孝恭王)がまだ1歳に満たなかったので、王弟の晃が王位に就いた。
== 治世 ==
先代の憲康王に倣うように、887年1月に皇龍寺で百高座を設け、王自らも行幸して講義を聞いた。同月、漢州京畿道広州市)の伊飡(2等官)の金蕘(きんじょう)が反乱を起こし、王は派兵して金蕘を誅殺させた。
乱の平定の後、5月に王は病を得て倒れた。その際に「自分には嗣子がおらず、妹(後の真聖女王)が聡明であるので王位につけるように」と遺言し、7月5日に死去した〔『三国史記』新羅本紀・真聖女王即位紀の分注には崔致遠の『文集』第二巻「謝追贈表」を引用して、憲康王の死去を光啓3年(887年)とし、その後を継いだ定康王もまた1年と経たないうちに死去したという。分注はさらに「定康王晃は光啓3年に薨去した。本紀には2年に薨去したとしている。どちらが正しいのかわからない」と続けている。なお、新羅本紀の憲康王紀の末文(「秋七月五日。薨。諡憲康。葬菩提寺東南。」)と定康王紀の末文(「秋七月五日。薨。諡定康。葬菩提寺東南。」)とは、諡の一部を違えるだけで残りは一致している。〕。定康王とされて菩提寺慶尚北道慶州市排盤洞の西南部)の東南に埋葬されたといい、その陵墓は慶州市南山洞の史跡第186号が比定されている〔定康王陵に比定される陵墓(史跡第186号)は、先代の憲康王陵(史跡第187号)と並んでいる。〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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