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宜昌作戦(ぎしょうさくせん)とは、日中戦争中の1940年(昭和15年)5月から6月まで湖北省で行われた日本軍の作戦である。日本軍の第11軍が、中国軍第5戦区軍の撃破と宜昌の攻略を目的として実行した。中国側の呼称は棗宜会戦。 == 背景 == 1940年(昭和15年)初頭、前年末から中国軍の冬季攻勢を受けた第11軍は、すぐさま宜昌方面に対する一大反撃作戦を企図して支那派遣軍と計画を推し進めていた。ここで宜昌が選ばれたのは、李宗仁麾下の第5戦区軍に対して痛撃を加えることのほかに、対ソ連軍備(関東軍)充実を目的とする支那派遣軍(約85万)兵力削減のために進められていた重慶政府との和平工作(桐工作など)を促進する必要性から、重慶に直接迫って圧力を加えるという戦略上のねらいがあったからである。宜昌は重慶まで約480キロと最も近く、揚子江を遡江する外航船もここまでは自由に出入りできる表玄関であり、交通路の要衝でもあった。また、海軍も重慶爆撃の中継地として宜昌を確保するよう陸軍に働きかけていた。 兵力削減計画を進める陸軍中央部もこの作戦の必要性を認めたため、4月10日、大本営は宜昌作戦の実行を発令した。しかし、この命令には宜昌の占領確保は含まれていなかった。宜昌を永久確保するかどうかは計画の段階でも問題となっていたが、兵力増強が望めない現状では新たな占領地を維持する余裕は無いとして、作戦後は原駐地へ反転帰還することになっていた。また、大本営命令の上奏の際、昭和天皇から「宜昌のごときはできるならば手をつけるな」とのお言葉があったと伝えられ、支那派遣軍首脳部はこれを「御内示」であると深刻に受けとめていた。 冬季攻勢によって意気軒昂した中国軍は、次期反攻のための第3期整訓で新たに80個師の編成充実を図り、その完了は6~8月ごろとみられていた。また、日本軍の進攻の企図を早期に察知し、第5戦区軍は頻繁に部隊の配置移動を行なって防備の強化に努めていた〔『支那事変陸軍作戦(3)昭和十六年十二月まで』 154-157頁。〕〔『支那事変陸軍作戦(3)昭和十六年十二月まで』 188-198頁。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「宜昌作戦」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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