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日向薬師(ひなたやくし)は、神奈川県伊勢原市日向(ひなた)にある仏教寺院である。本尊は薬師三尊。現在の宗派は高野山真言宗。かつては日向山霊山寺(ひなたさんりょうせんじ)と称し、子院13坊を擁する大寺院であったが、廃仏毀釈で多くの堂舎が失われ、現在は霊山寺の別当坊であった宝城坊(ほうじょうぼう)が寺籍を継いでいる。 寺号は廃仏毀釈以前は「霊山寺」、以後は「宝城坊」と称するが、中世以来薬師如来の霊場として信仰を集めていることから、「日向薬師」(ひなたやくし)の名で親しまれている。 ==歴史== 日向薬師は、元の名を日向山霊山寺(ひなたさんりょうせんじ)と称した薬師如来信仰の霊場で、関東地方では有数の古寺である。本尊は平安時代前期に作られた鉈彫り(なたぼり:像の表面にノミ目を残して仕上げる彫刻様式)の薬師三尊 像である。また宝物殿には阿弥陀如来や四天王、十二神将など 23体の仏像が納められている。これらを含め 国の重要文化財9件、神奈川県および伊勢原市指定の文化財を多数所蔵する。 柴折薬師(高知県大豊町)・米山薬師(新潟県上越市)とともに「日本三大薬師」に数えられることもあり、峰の薬師(相模原市)・高尾山薬王院・新井薬師とともに「武相四大薬師」として信仰を集めており、一時期は勅願寺になり、江戸時代末期には 13坊を数えたと言われる。 寺伝では霊亀2年(716年)、行基の開山という。寺に残る梵鐘(暦応3年・1340年鋳造)の銘文や、鎌倉時代の史書『吾妻鏡』も当寺を行基の草創としており、行基草創伝承は鎌倉時代からあったことがわかるが、境内からは奈良時代にさかのぼる寺院跡は発掘されておらず、実際の創建は10世紀頃と推定されている。 前述の梵鐘銘は当寺の歴史にかかわる重要史料で、それによると、天暦6年(952年)村上天皇から梵鐘を賜ったが、その鐘が傷んだので仁平3年(1153年)に改鋳、さらに暦応3年(1340年)に改鋳したのが今ある鐘だという。天暦6年に村上天皇から梵鐘を下賜されたことは史実と認められ、また、日向薬師の本尊である薬師三尊像が様式上この頃の作品と推定されることから、霊山寺の伽藍が整備されたのは10世紀頃と考えられている。 日向薬師の文献上の初見は、平安時代の歌人・相模の歌「さして来し日向の山を頼む身は目も明らかに見えざらめやは」であるとされている。相模は相模守大江公資(きみより)と結婚して寛仁4年(1020年)、夫の任地である相模に下向、万寿元年(1024年)には帰京しているので、前出の歌はその間に詠まれたものと思われる。このことから、日向薬師は平安時代後期には霊場として栄えていたことがうかがえる。 鎌倉時代の史書『吾妻鏡』にも日向薬師にかかわる記事が見られる。建久3年(1192年)8月9日条には、源頼朝の妻・北条政子の安産祈願のために読経をさせた寺院の1つとして霊山寺の名が見える(この時生まれた子が後の源実朝)。また、建久5年(1194年)8月8日条には、源頼朝が娘の大姫の病平癒祈願のため自ら「日向山」へ参詣したとの記載がある。 近世の地誌『新編相模風土記稿』によれば、近世の日向薬師には別当坊の宝城坊を含め13坊があり、それ以外にすでに廃絶した坊もいくつかあったと記載されていることから、往時の規模がしのばれる。また、山内には七所権現社や東照宮などがあり、神仏習合の信仰が行われていた。 明治時代初期の廃仏毀釈によって多くの坊舎が失われ、本堂(薬師堂)、鐘堂、仁王門などをわずかに残すのみとなった。現在は霊山寺の別当坊であった宝城坊が寺籍を継いでいる(別当坊とは、山内の最高位の僧が住む坊のこと)。21世紀の現在も「日向薬師」として病気平癒、特に眼病に霊験ありとして信仰を集める。また、山内の自然環境が良好に保持されていることから、ハイキングコース、健康保持増進や心の安らぎの場として人気を集めている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「日向薬師」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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