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宝塚尼崎電気鉄道 : ミニ英和和英辞書
宝塚尼崎電気鉄道[たからづかあまがさきでんきてつどう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [たから]
 【名詞】 1. treasure 
: [つか]
 【名詞】 1. mound 
: [あま]
 【名詞】 1. (col) nun 2. bitch 
: [みさき]
 (n) cape (on coast)
電気 : [でんき]
 【名詞】 1. electricity 2. (electric) light 
: [げ, き]
  1. (suf) (uk) seeming 2. giving the appearance of 3. giving one the feeling of
: [てつ]
 【名詞】 1. iron 
鉄道 : [てつどう]
 【名詞】 1. railroad 

宝塚尼崎電気鉄道 : ウィキペディア日本語版
宝塚尼崎電気鉄道[たからづかあまがさきでんきてつどう]
宝塚尼崎電気鉄道(たからづかあまがさきでんきてつどう、通称 尼宝電鉄(あまほうでんてつ))は、兵庫県尼崎市宝塚市とを結ぶ鉄道路線の建設を行っていた鉄道会社である。ほぼ全線の路盤までは完成したが、鉄道として開業されることはなかった(未成線)。阪神電気鉄道の子会社である。
== 概要 ==
この路線の申請は1922年10月に行われた。西宮土地社長の前田房之助〔前田は摂津電気自動車(トロリーバス)の創立にもかかわっている『帝国銀行会社要録 : 附・職員録. 大正15年版』 (国立国会図書館デジタルコレクション)〕を総代とし、発起人には地元の政財界の有力者が名を列ねていた。申請時の路線は、阪神出屋敷駅 - 守部 - 髭茶屋 - 鳥島 - 宝塚を結ぶもので〔伊丹市史第3巻p410 (1972)〕、武庫川の改修工事によってできた武庫川の東岸を通り、途中に3駅を設けるとしていた。また、武庫川の廃川跡に住宅地や遊園地を建設する予定としていた。1923年7月19日、尼宝電鉄に対しこの路線の免許状が下付された〔「鉄道免許状下付」『官報』1923年7月23日 (国立国会図書館デジタルコレクション)〕〔「新設さるる電車尼崎宝塚線」1923年7月22日付け大阪毎日新聞 (神戸大学附属図書館新聞記事文庫)〕。
尼宝電鉄と接続することになる阪神電鉄はこの路線に目をつけ、同年7月31日には同社への出資を決定した。当時、阪神急行電鉄(後の阪急電鉄)が神戸への進出を目指しており、阪神はそれへの牽制として、阪急の「聖地」とも言える宝塚への進出を考えていた所であった。それにより、尼宝電鉄は1924年2月6日に設立総会を開き、前田房之助が社長に〔『日本全国諸会社役員録. 第34回』 (国立国会図書館デジタルコレクション)〕、阪神社長の三崎省三が相談役に就任した。
尼宝電鉄は阪神尼崎駅まで延長して阪神本線に乗り入れ、阪神梅田駅までの直通運転を行うこととした。また、武庫川東岸を通る当初のルートから、阪神尼崎駅を起点として伊丹市の市街地を通るルートへの変更を申請した。起点の変更は、出屋敷起点では阪神電鉄が予定していた第二阪神線と交叉しなければならないことを理由としていたが、このルートでは既設の阪急伊丹線に近づくことになった。
阪急はこれに対抗するため、伊丹線の両端を延長する形で宝塚 - 伊丹間・塚口 - 尼崎 - 西宮海岸 - 今津間の軌道特許を申請した。それに対抗して阪神は出屋敷 - 高洲 - 東浜 - 今津間の特許を申請した。結局、阪急には宝塚 - 伊丹間・塚口 - 尼崎間、阪神には申請の通り出屋敷 - 今津間の特許が認められた。
この新線騒動が決着した後、尼宝電鉄は伊丹市街地を通るルートへの変更を撤回し、当初ルートと伊丹市街地を通るルートのほぼ中間を通る、阪神尼崎駅 - 守部 - 時友 - 西野 - 宝塚のルート〔伊丹市史第3巻p410 (1972)〕で1924年6月に施行認可申請を提出した。途中阪急神戸本線や宝塚線と交叉する箇所があり、この部分についての阪急との交渉が難航した。1926年1月にようやく協定が成立し、2月に施行認可を受けた。
1927年末までには両端部を除く西大島 - 小浜間の路盤が完成した。しかし、両端部は着工されなかった。宝塚側は当初は終点を宝塚大劇場前としていたが、1926年5月に国鉄宝塚駅構内に変更する届を出した。これでは、阪急線・国鉄線との立体交叉区間が多くなって、工費がかさんでしまうため、着工の決断が下せなかった。さらに尼崎側では、1926年11月に都市計画の支障になるとして、尼崎市から市街地の3kmを高架で建設することを要求された〔「阪神両大都と関連して西宮の都計区域を決定」1927年11月22日付け神戸新聞 (神戸大学附属図書館新聞記事文庫)〕。尼宝電鉄では地平での建設を予定していたので、こちらも工費がかさむことになる。しかも、連絡することになっていた阪神本線は地平線であったので(尼崎付近の高架化が行われるのは1994年のことである)、尼宝線を高架にすると直通運転ができなくなり、尼宝電鉄としての存在意義は薄らぐことになる。
1929年、尼宝電鉄は開業延期を申請し、既に完成している路盤を使ってバスの営業を行う方針に転換した。1929年7月25日に尼崎 - 宝塚間のバスの営業願いを提出した。路盤敷そのままではバス営業は認められないとされたため、同年11月に路盤敷を自動車専用道路に改築する申請を行った。舗装まではできたものの、その後バスを購入する資金が捻出できなかったことから、1932年6月、尼宝電鉄は阪神の子会社の阪神国道自動車(現阪神バス)に吸収合併された〔「尼宝電鉄遂に阪国バスに合併」1932年6月25日付け大阪毎日新聞 (神戸大学附属図書館新聞記事文庫)〕。同年8月には尼崎 - 宝塚間の鉄道起業廃止申請が行われ、11月2日付けで免許が失効した〔「鉄道起業廃止」『官報』1932年11月2日 (国立国会図書館デジタルコレクション)〕。自動車専用道路は1932年11月に完成し、12月25日より神戸 - 宝塚間、大阪福島 - 宝塚間でのバス運行が開始された。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「宝塚尼崎電気鉄道」の詳細全文を読む




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