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宝永地震(ほうえいじしん)は、江戸時代の宝永4年10月4日(1707年10月28日)、東海道沖から南海道沖(北緯33.2度、東経135.9度 〔 - 震度分布による推定で、断層破壊開始点である本来の震源、その地表投影である震央ではない。〕)を震源域として発生した巨大地震。南海トラフのほぼ全域にわたってプレート間の断層破壊が発生したと推定され、記録に残る日本最大級の地震とされてきた〔宇佐美(2003)〕〔『理科年表』〕。世にいう宝永の大地震(ほうえいのおおじしん)、あるいは宝永大地震(ほうえいおおじしん)とも呼ばれ、亥の大変(いのたいへん)とも呼ばれる。地震の49日後に起きた宝永大噴火は亥の砂降り(いのすなふり)と呼ばれる。 南海トラフ沿いを震源域とする巨大地震として、江戸時代には宝永地震のほか、慶長9年(1605年)の慶長地震〔慶長地震の震源域には諸説あり、南海トラフ沿いの地震ではないとする見解も出されている。- 石橋克彦, 原田智也(2013): 1605(慶長九)年伊豆-小笠原海溝巨大地震と1614(慶長十九)年南海トラフ地震という作業仮説,日本地震学会2013年秋季大会講演予稿集,D21‒03, :[講演要旨]1605年慶長地震は南海トラフの地震か?, 歴史地震, 第29号, 263.〕、嘉永7年(1854年)の安政東海地震および安政南海地震が知られている。また、宝永地震の4年前(1703年)には元号を「宝永」へと改元するに至らしめた相模トラフ巨大地震の一つである元禄地震が発生している。 == 地震 == === 地震動 === 宝永四年丁亥十月四日壬午の未上刻(1707年10月28日14時前〔未の上刻(ひつじのじょうこく)は、午後1 - 2時。''cf.'' 時刻#日本。昼八ツ時の鐘をつく前に地震が発生したため13:45前後と推定される - (『板垣氏筆記』)間城(1995)。古記録の平均では13:47±1.02 hrとなる。- 今井健太郎ほか(2011): 史料に基づく1707年宝永地震の発震時刻に関する統計的解釈, 「歴史地震」第26号(2011)〕)、畿内、東海道および南海道諸国は激しい揺れに襲われた。 土佐は当日、晩秋でありながら快晴で袷一つで済むような暑い日であったという。『万変記』(『弘列筆記』)には「朝より風少もふかず、一天晴渡りて雲見えず、其暑きこと極暑の如く、未ノ刻ばかり、東南の方おびただしく鳴て、大地ふるひいづ、其ゆりわたる事、天地も一ツに成かとおもはる、大地二三尺に割、水湧出、山崩、人家潰事、将棋倒を見るが如し」とある〔『大日本地震史料』〕。 震動時間は土佐国高知(現・高知県高知市)において「半時ばかり大ゆりありて、暫止る」(『万変記』)、土佐国高岡郡の宇佐村(現・土佐市宇佐)では「未の上刻〔より大地震 同時ノ中刻に静まる」(『今昔大変記』)など、30分から1時間も揺れが継続したような表現が多く見られるが、「又暫くしてゆり出し、やみてはゆる、幾度といふ限なし、凡一時の内六七度ゆり、やまりたる間も、筏に乗たるごとくにて、大地定らず」(『万変記』)といった記録もあり、これは直後の余震活動をも含めた時間を表しているとされるが、現代ほど厳密な時刻を求めない時代にあって感覚に頼る部分が大きく、あるいは大地震による恐怖感が誇張的な表現を生んだとする見方もある〔間城(1995)〕。本震の有感であった継続時間として確からしい記録として高岡郡佐川村(現・佐川町甲〔甲(こう)は、「本町」などと同様、合併後の中心的地域に当てられる地名の一つ。〕)において「行程に積らば二百歩を過ぐ可か やや久敷く震動す」(2分余、『宝永地震記』)、あるいは、京都において「地震動は道を七 八町歩くくらいゆれつづいた」(約10分、『基煕公記』)といった記録がある。他に「其間ヲ勘ルニ一時ヲ六ツニシテ、其一ツ程長クユリ」(志摩『小林家記録』)、「茶四五ふくも給へ申間ゆり」(今治『大浜八幡宮文書』)、「時斗二三歩之間震り」(大坂『出火洪水大風地震』)、また「未一點より。申前迄大地震。」(大坂『鸚鵡籠中記』)という甚だ長い震動時間の記録もある〔 飯田汲事: 6. 宝永4年10月4日(1707年10月28日)の宝永地震の震害と震度, 東海地方地震・津波災害誌〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「宝永地震」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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