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宮史郎とぴんからトリオ : ミニ英和和英辞書
宮史郎とぴんからトリオ
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。


宮史郎とぴんからトリオ ( リダイレクト:宮史郎 ) : ウィキペディア日本語版
宮史郎[みや しろう]

宮 史郎(みや しろう、1943年(昭和18年)1月17日 - 2012年(平成24年)11月19日)は、日本演歌歌手。最終的な所属事務所は宮プロジェクト。
== 経歴・人物 ==
本名は宮崎芳郎。兵庫県加西市広原町生まれ。
姫路市のキャバレーで働きながら1959年(昭和34年)、自主制作で「男の花道」を発売。
1961年(昭和36年)、拠点を大阪に移し、当時流行していたボーイズ形態の音曲漫才〔メンバーが何かしらの楽器を演奏しながらその時期の流行歌の替え歌を交えて進行する演芸の一種で、大阪では浪曲師、東京ではバンドマンからの移行が多かったが、その後、大阪からは廃れてしまった演芸形態。〕スパローボーイズを結成。
1963年(昭和38年)、宮五郎(宮史郎の兄、1936年(昭和11年)4月29日 - 1994年(平成6年)8月12日)・並木ひろし1942年(昭和17年)2月14日 - 1998年(平成10年)11月13日)と共に音曲漫才ぴんからトリオを結成。グループ名の由来は「ピンからトリを」からである。
1972年(昭和47年)、東宝芸能所有の大阪梅田の演芸場『トップホットシアター』に出演していた時期に自主制作したレコード「女のみち」が、有線放送と地道な営業から火が付き420万枚〔「ぴんから兄弟」宮史郎さん死去 「女のみち」大ヒット スポーツ報知、2012年11月20日6時0分。〕を売り上げ、続いて発売された「女のねがい」が170万枚〔、「女のゆめ」が80万枚〔と大ヒットした。
また、これ以後漫才から歌謡コーラスグループに移行。殿さまキングス平和勝次とダークホースなどのボーイズ+音曲漫才浪曲出身のグループ演歌が昭和50年代前半までブームとなった。
1973年(昭和48年)にぴんからトリオから並木ひろしが脱退し(その後並木は並木ひろしとタッグマッチで活動)、グループ名をぴんから兄弟に改名。同年、『第24回NHK紅白歌合戦』に「女のみち」で初出場。
1983年(昭和58年)にぴんから兄弟は解散しソロ歌手として活動。宮五郎は引退して史郎のマネージャーとなったが、その後病気で倒れ、長年療養生活を送った。
1984年(昭和59年)『片恋酒』が大ヒットを記録する。
以後も各種演歌、ナツメロ番組、地方回りと枚挙に暇のない売れっ子ぶりで活躍した。
2004年(平成16年)、金鳥『虫よけグリーン』のコマーシャルで虫に扮して「虫ごころ」を歌い話題になった。2005年(平成17年)、同じく金鳥の『おでかけカトリス』のコマーシャルで「おでかけ慕情」を歌った。
2007年(平成19年)公開の映画「歌謡曲だよ、人生は」の第五話「女のみち」に自ら出演し、劇中で「女のみち」を披露した。
2012年(平成24年)11月19日、多臓器不全のため死去「女のみち」ぴんからトリオの宮史郎さん死去 69歳 朝日新聞 2012年11月19日閲覧〕。。没後に生前の功労を称えられて第54回日本レコード大賞特別功労賞が追贈された〔第54回日本レコード大賞 各賞 東京放送〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「宮史郎」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Shiro Miya 」があります。




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