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宮坂寀二 : ミニ英和和英辞書
宮坂寀二[に]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [さか]
 【名詞】 1. slope 2. hill 
: [に]
  1. (num) two 

宮坂寀二 ( リダイレクト:宮坂シン二 ) : ウィキペディア日本語版
宮坂シン二[に]

宮坂 寀二(みやさか しんじ、1888年明治21年10月) - 1949年昭和24年)は、日本囲碁棋士富山県出身、本因坊秀哉門下、日本棋院などに所属、六段。満州に渡り、満州棋院を設立した。
== 経歴 ==
氷見郡速川村に生まれる。12歳の時に碁を覚え、のち金沢市の上木二段に学び、17歳から各地を漫遊した。碁石村役場に勤めていた19才の時に、金沢に来訪した田村保寿(本因坊秀哉)に指導を受け、翌1907年に上京して田村の内弟子となる。宮坂は田村の最初の内弟子で、後に弟子入りした福田正義、小岸壮二村島義勝前田陳爾らの筆頭格だった。
1913年(大正2年)に二段、14年に三段、18年四段となり、花形棋士として活躍。1920年から21年にかけて、萬朝報勝継碁戦で11連勝。1921年五段。1923年の中央棋院設立に師の秀哉とともに参加、坊社分離では秀哉と行動をともにし、1924年の日本棋院設立に参加、その後六段。棋正社との院社対抗戦では2人抜きする。1927年に大手合で東西対抗戦が開始されると、東軍の副主将格として活躍。高段者優勝戦で8人抜き。秀哉引退翌年の1938年に満州に渡り、39年に新京に満州棋院を設立。日本棋院はこれを傘下組織としようとするが、宮坂は従わず両者は対立し、日本棋院は1943年に福田正義を責任者として、日本棋院満州別院を設立した。
敗戦後は伊豆下田に引き揚げ、日本棋院にも復帰せずに、囲碁教授と、夫人の生け花教授で生計を立てた。1949年秋に死去。弟弟子の前田陳爾が墓碑を記した。棋風は、二線のハネツギを素早く打ってしまう碁だったという。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「宮坂シン二」の詳細全文を読む




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