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宮城 弘明(みやぎ ひろあき、1962年6月16日 - )は、神奈川県横浜市鶴見区出身〔の元プロ野球選手(投手)。 == 来歴・人物 == 横浜市でラーメン店を営む家庭に生まれ、野球好きの父によって左投げに矯正される〔朝日新聞、1996年7月2日付朝刊、神奈川地方面〕。鶴見中学校3年生の時に2人のプロ野球選手から三振を奪い、10校以上の野球部から勧誘を受けて横浜商へ進学〔。入学後は基礎体力作りに努め、高校2年生のには県大会決勝で愛甲猛との投げ合いを制し、同校を41年ぶりの夏の甲子園大会出場へ導いた〔。しかし試合後に左肩に激痛を感じ、香川伸行とともに大会を代表する選手に挙げられていた本大会では変化球主体の投球で準決勝まで勝ち進むも、箕島高校に敗れた〔朝日新聞、1996年7月3日付朝刊、神奈川地方面〕。3年夏の県大会では4回戦で桐蔭学園に敗れ、自身の登板は13イニングにとどまっている〔朝日新聞、1996年7月4日付朝刊、神奈川地方面〕。 プロ入り志望を表明すると地元に近いロッテなど11球団のスカウトが実家に訪れ〔、1980年のドラフト3位でヤクルトスワローズに入団。193cmの長身から「ジャンボ」の愛称で親しまれ、球威が認められるようになった3年目のには開幕一軍入りを果たしている〔。しかし翌の春に左ひじに水がたまり、ごまかしながら投げ続けるもには両手で顔が洗えないほど状態が悪化した〔。オフにヤクルトを自由契約になり大洋の入団テストを受けたが不合格となる〔。 渡韓に反対する親戚を説得して韓国球界に挑戦し〔朝日新聞、1996年7月5日付朝刊、神奈川地方面〕、当時の韓国球界はコーチを除き在日コリアンでなければ入団することができなかったため〔出自が在日コリアンであれば日本国籍でも入団可能だったため、既に日本に帰化していた石山一秀や新浦壽夫が韓国球界に移籍している。〕、スカウトが在日コリアンと偽り〔、ピングレ・イーグルスに入団した。実質、初の「在日コリアンではない日本人選手」となった〔に入来智が斗山ベアーズへ入団するまでは唯一のケースであったが、韓国野球委員会の記録では日本人選手と見なしていない〕。 韓国での登録名は金弘明(キム・ホンミョン、김홍명)〔。すぐにレギュラーとなって二戦目で勝利を挙げると、同年は先発ローテーションに一年間定着して156イニングを投げて自身初の体験に充実感を得たという〔。 ハングルを覚えるなど韓国での生活に徐々になじんでいったが成績が上がらないこともあり、帰国を決めたに現役を引退した〔。帰国後は知人の紹介で江本孟紀の私設秘書となり〔、1996年4月に地元選出の石渡清元の秘書となっている。その後小林温の秘書などを歴任し、2003年、横浜市議会議員選挙に鶴見区選挙区から自民党公認で出馬するも落選。 からは社会人野球クラブチーム『千葉熱血メイキング』のヘッドコーチに就任。また、これと並行する形でNPO法人「つばめスポーツ振興協会」での野球教室の講師も担当している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「宮城弘明」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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