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宮島文雄 : ミニ英和和英辞書
宮島文雄[おす]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [しま]
 【名詞】 1. island 
: [ぶん]
 【名詞】 1. sentence 
: [おす]
 【名詞】 1. male (animal) 

宮島文雄 ( リダイレクト:宮島啓夫 ) : ウィキペディア日本語版
宮島啓夫[みやじま ふみお]

宮島 啓夫(みやじま ふみお〔キネマ旬報社, p.577.〕、1894年6月4日 - 没年不詳)は、日本の俳優である〔〔杉岡, p.180.〕〔''宮島啓夫''、''jlogos.com'', エア、2013年3月4日閲覧。〕〔''宮島啓夫''日本映画データベース、2013年3月4日閲覧。〕〔''宮島啓夫''、日本映画情報システム、文化庁、2013年3月4日閲覧。〕〔''宮島啓夫''日活データベース、2013年2月27日閲覧。〕。宮嶋 啓夫とも表記した〔宮嶋啓夫 国立国会図書館、2013年3月4日閲覧。〕。本名・旧芸名宮島 文雄(みやじま ふみお)〔。
== 人物・来歴 ==
1894年明治27年)6月4日東京府東京市(現在の東京都)に生まれる〔。兄は作家の宮嶋資夫(1886年 - 1951年)、姉の春子はのちに大下藤次郎と結婚する。
坪内逍遥文藝協会に参加、1913年(大正2年)2月、有楽座での同協会第5回公演、作の『』に本名の「宮島 文雄」の名で出演〔田中, p.101.〕、同年5月には、帝国劇場で幹部となっている〔。満19歳となる同年6月、同協会第6回公演、ウィリアム・シェイクスピア作の『ヂユーリアス・シイザア』で「」役を演じた〔。同公演をもって同協会は解散、宮島は島村抱月松井須磨子らが興した芸術座(第一次芸術座)に参加、同年9月、有楽座での同座第1回公演、モーリス・メーテルリンク作の『』で「見知らぬ人」役、おなじくメーテルリンク作の『』で「ギドーの副官」役を演じた〔田中, p.116-117.〕。翌年1月には、フランク・ヴェーデキント作の『出発前半時間』で「ホテルの給仕人」を演じたが、これには、のちに日活向島撮影所の映画監督として知られる田中栄三も出演している〔田中, p.127.〕。1916年(大正5年)3月、帝国劇場での同座第7回公演、中村吉蔵作の『お葉』で「作男仁吉」を「宮島 啓夫」の名で演じた〔田中, p.122.〕。1918年(大正7年)11月の島村抱月の病死とその後の松井須磨子の自殺を経て、第一次芸術座は解散した。
1922年(大正11年)、田中栄三らのいる日活向島撮影所に入社、同年6月11日に公開されたサイレント映画闇のかほり』に主演、満28歳で映画界にデビューした〔〔〔。『日本映画俳優全集・男優編』(キネマ旬報社)には「劇団同志座から」「入社」との記述があるが〔、「同志座」の設立は2年後の話である〔佐々木積 、''jlogos.com'', エア、2013年3月4日閲覧。〕。当時、まだ映画にはスタッフ等のクレジットが入っておらず〔田中, p.274-279.〕、多くの作品の監督名等は不明である〔〔。同年12月30日に公開された田中栄三監督の『京屋襟店』、翌1923年(大正12年)2月4日に公開された溝口健二の監督デビュー作『愛に甦る日』等に助演したが〔〔〔、同年9月1日の関東大震災に罹災し、同撮影所は崩壊した〔田中, p.374.〕。
1924年(大正13年)9月、山田隆弥(のちの山田隆也)、岡田嘉子ら元「舞台協会」のメンバーによる「同志座」の設立に参加、同月の第1回公演に出演する〔。ほかにも佐々木積〔、笹川恵三笹川恵三 、''jlogos.com'', エア、2013年3月4日閲覧。〕、森英治郎森英治郎 、''jlogos.com'', エア、2013年3月4日閲覧。〕らが参加した。このころに露原桔梗(のちの映画女優・若葉信子、俳人・稲垣きくの)が入団、同座で初舞台を踏んでいる〔若葉信子 、''jlogos.com'', エア、2013年3月4日閲覧。〕。翌1925年(大正14年)、「同志座」が兵庫県西宮市甲陽園東亜キネマ甲陽撮影所と提携、宮島は、同年6月25日に公開された坂田重則監督の『光り闇を行く』に、同座の森英治郎らとともに出演した〔〔。同年秋、8歳下の同志座および同撮影所の女優・露原桔梗と結婚する〔〔影山, p.46-47.〕。1926年(昭和元年)12月末、夫婦ともども同撮影所を退社、東京に戻る〔〔〔〔〔。
翌1927年(昭和2年)早々、宮島の妻・露原露原桔梗は松竹蒲田撮影所に入社して「若葉信子」と改名、次々に主役をものしていく一方〔〔、宮島は、初代水谷八重子が再興した芸術座(第二次芸術座)に参加した。1928年(昭和3年)ころ、松竹女優となった妻・若葉信子と離婚している〔。その後は、八重子の芸術座に所属するとともに、1929年(昭和4年)8月には、日本ビクター(現在のビクターエンタテインメント)が発売した『悲しき遍路』全4枚に、佐藤千夜子の独唱に対して、山本かおるとの芝居の録音に参加している〔悲しき遍路 国立国会図書館、2013年3月4日閲覧。〕、翌月には同じく日本ビクターが発売した『江州音頭 木下藤吉郎』全4枚を佐藤千夜子らとともに吹き込んでいる〔江州音頭 木下藤吉郎 、国立国会図書館、2013年3月4日閲覧。〕。同月、日本コロムビアが発売した演劇レコード『獅子に喰はれる女』(作中村吉蔵)全4枚に八重子や柳永二郎とともに出演し〔演劇 獅子に喰はれる女 国立国会図書館、2013年3月4日閲覧。〕、同年11月1日に公開された発声映画社による『大尉の娘』(監督落合浪雄)に出演している〔〔。
1935年(昭和10年)1月5日に公開された新興キネマ東京撮影所(現在の東映東京撮影所)による『唐人お吉』(監督冬島泰三)、1936年(昭和11年)1月30日に公開された、同座と松竹興行現代劇部・新興キネマ東京撮影所の共同製作による『大尉の娘』(監督野淵昶)に出演している〔〔。以降の消息は明らかではない。没年不詳

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「宮島啓夫」の詳細全文を読む




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