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宮崎筠圃 : ミニ英和和英辞書
宮崎筠圃[みさき]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [みさき]
 (n) cape (on coast)

宮崎筠圃 ( リダイレクト:宮崎イン圃 ) : ウィキペディア日本語版
宮崎イン圃[みやざき いんぽ]

宮崎 圃(みやざき いんぽ、享保2年8月21日1717年9月25日) - 安永3年12月10日1775年1月11日))は、江戸時代中期の儒学者。名は奇、字は子常、通称は常之進。
== 人物 ==
享保2年(1717年)、尾張国海西郡鳥池村にて宮崎古厓の長男として生まれる〔『コンサイス日本人名事典』1220頁〕〔『成功百話』89頁 〕〔『近世畸人伝 巻之1-5』27頁 〕。18歳の時、両親とに移り、伊藤東涯に師事して学ぶ。東涯没後は、東涯の弟・伊藤蘭嵎に師事した〔〔『成功百話』89 -90頁〕〔『近世畸人伝 巻之1-5』28頁 〕。
詩画に優れ、特に墨竹画については、山科李蹊御園中渠浅井図南とともに「平安の四竹」と称された〔〔〔『成功百話』90頁 〕。しかし、画名が高まった結果、人から儒者ではなく画工と見られていると母に諌められて筆を折り、その後、終生画筆をとることがなかったという〔〔『近世畸人伝 巻之1-5』28-29頁 〕。
また、俗習に染まらず、世情に疎い人物であったとされる〔『近世畸人伝 巻之1-5』29頁 〕。ある日、雨に降られた圃が、慌てて駆け込んだ軒下が娼家であった。娼家の妓たちは、しきりに「お入り、お入り」と圃を招いた。圃は客引きされたと分からず、帰宅してから弟子たちに「傘を貸そうとしたのだろう。というものは実に人の固有である。」などと語ったことから、以来、弟子は圃を「仁先生」とあだ名したという逸話が残されている〔〔『成功百話』91頁 〕。
安永3年(1774年)、享年58にて没し、東山永観堂に葬られた〔〔『近世畸人伝 巻之1-5』30頁 〕。
備考録、経説、詩文集数巻を著したが、いずれも成稿に至らず終わった〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「宮崎イン圃」の詳細全文を読む




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