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宮川の戦い(みやがわのたたかい)は、天文11年9月25日(1542年11月2日)に信濃宮川で行なわれた甲斐の武田晴信軍と信濃の高遠頼継軍の合戦である。この戦いで武田家は諏訪郡の覇権を掌握した。 == 概要 == 天文11年(1542年)7月、諏訪惣領家の諏訪頼重は武田晴信と諏訪庶家の高遠頼継の連合軍に攻められて降伏〔 河合秀郎 著『日本戦史、戦国編②』学習研究社、2002年、p.14〕(桑原城の戦い)。頼重とその弟の頼高は7月21日に甲斐で切腹となり〔 笹本正治 著『武田信玄』ミネルヴァ書房、2005年、p.33〕、諏訪惣領家は滅亡した〔。この際、諏訪領は宮川を境界にして東を武田領、西を高遠領とする協定が締結された〔。 しかし諏訪惣領の地位を目指す高遠頼継は宮川より西の諏訪郡しか手に入れられなかった事に不満を抱き、9月10日、武田領に電撃的に侵攻して上原城を攻め落とし、さらに諏訪上社の矢島満清、有賀遠江守、伊那郡箕輪の福与城主・藤沢頼親や土豪の春近衆を味方につけた〔〔 河合秀郎 著『日本戦史、戦国編②』学習研究社、2002年、p.15〕。これに対して9月11日、下諏訪衆、諏訪満隆、安国寺竺渓ら武田方の武将を後詰するため、晴信は板垣信方に軍を預けて向かわせた〔〔。板垣らは安国寺付近に向かって高遠勢の退路を脅かしたが、このため頼継は退路を絶たれる事を恐れて下諏訪から撤収して安国寺に集結した〔。 9月19日、晴信は頼重の遺児である寅王を擁して若神子まで出陣し、自己の正当性を主張しながら板垣隊と合流する〔〔。9月25日、武田軍は宮川まで進軍し、未刻(午後1時から3時)頃に宮川橋付近で高遠軍と衝突した〔。この合戦は酉刻(午後5時から7時)まで続き、高遠軍は頼継の実弟である高遠頼宗(蓮峯軒)ら700余人の死者を出して敗走した〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「宮川の戦い」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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