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宮川左近ショウ(みやがわさこんしょう)は、昭和期に活躍した松竹芸能所属の浪曲漫才トリオ。出囃子は『吉良の仁吉』〔池中スエ(道頓堀角座お囃子方主任)の編曲。〕。 == メンバー == ; 宮川左近(四代目)(みやがわ さこん、1925年1月20日 - 1986年9月21日) :本名:佐久間 利三。節回し担当。リーダー。北海道函館出身。立ち位置は向かって中央。 :最初は故郷で本名の名で民謡一座に属し天才少年民謡歌手として売り出される。当時三橋美智也と並ぶ人気を得たという。1938年三代目宮川左近に入門、二代目宮川左近丸を名乗る。同年新潟県湯沢の旭座で初舞台。同年9月に師匠が没した為、子役座長で地方を巡業するようになる。1950年に四代目宮川左近を襲名。 :台本も担当。著書には随筆集『浪曲半世紀』があるが、執筆中に健康を害して中断したまま未完に終わった。 :晩年(1980年代)関西演芸協会副会長。 :大阪警察病院で死去。 :弟子には宮川大助、宮川青丸等がいる。実子にアコーディオン奏者の富永豊一がいる。 ; 暁照夫(あかつき てるお、1937年5月17日 - 2015年5月29日) : 本名:浜田 登志夫。三味線担当。徳島県出身。立ち位置は向かって右。 :浪曲師一家に生まれ、1948年に二代目東洋軒雷右衛門に修行に出され、入門翌日に東洋軒雷坊で宇和島の融通座で初舞台。天才少年浪曲師として売り出される。 :芸者に三味線を教わっていたが、変声期に喉を傷めたため1954年に照雄の名で曲師に転身。東京に出て三門博に付いたり、大阪で河内音頭の鉄砲光三郎と組んで鉄砲節の開発に邁進したりした。ショウ加入後は和夫、一夫と揃えるため照夫に改名。 ; 松島一夫(まつしま かずお、1929年12月25日 - 2013年4月2日) : 本名:大饗 健一。ギター担当。立ち位置は向かって左。 :佐賀県唐津市出身。浪曲に興味を持ち、1945年に二代目京山小円に入門して京山小さん、1947年に松島一夫と改名。1949年に今治大衆劇場で初座長。その後も大阪の主要劇場には出演せず、初代京山幸枝若と共に地方巡業をする。 :歌謡曲『会津の小鉄』の作詞でも知られる。またキングレコードより『釜ヶ崎情け節』をリリースしている。 :弟子には松島ひで夫・ひで丸等がいる。 :2013年4月2日、慢性閉塞性肺疾患のため大阪府内の病院で死去。享年83。〔 MSN産経ニュース 2013年4月4日閲覧〕 ; 高島和夫(たかしま かずお、1907年 - ? ) : 本名:高嶋 和夫。アコーディオン担当。 :小西二郎の下でピアノを修行し、1928年に姫路劇場で初舞台。結成直後の1年のみ在籍〔当初は舞台に立っていたが、早いテンポに付いて行けなかったため、勝忠男の命でフロントラインから外され、1人だけソデで演奏するようになった。〕、脱退後はバンドマンに転向した。 :妻は浪曲の曲師、実子に『宗右衛門町ブルース』が大ヒットした平和勝次とダークホースの平和勝次、笹山サンバがいる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「宮川左近ショウ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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