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宮川 春汀(みやがわ しゅんてい、明治6年〈1873年〉11月11日 - 大正3年〈1914年〉7月26日)とは、明治時代の浮世絵師。 == 来歴 == 富岡永洗の門人。三河国(現・愛知県)渥美郡畠村(現・田原市福江町)に廻船業と薬種問屋を営んでいた豪商・渡辺家に生まれた。名は守吉。明治11年に母が絶家となっていた宮川家を継いだため、守吉も宮川を名乗る。 明治23年(1890年)幼少から得意としていた画業を志し上京、富岡永洗について絵を学んだ。春汀が画家となった理由は不明だが、同郷の日本画家・渡辺小華に憧れたからとする説がある。以来、写生を専らにして浮世人物を究め、特に好んで柔らかいタッチの子供絵を描いた。最初は師から「蓬斎洗圭」の名を与えられるが、明治28年(1895年)に「宮川春汀」に改名した。作画期は明治25年(1892年)代から亡くなる年までで、明治20年から明治30年代にかけて「風俗通」、「美人十二ヶ月」、「風俗錦絵雑帖」などの風俗画の他、雑誌口絵、新聞挿絵を描いている。こうした画業の傍ら、柳田國男、田山花袋、国木田独歩、徳田秋声、桐生悠々ら多くの若い文人たちと交流を重ねていった。また作家・巌谷小波と知り合い、明治31年5月小波が主催する「木曜会」に入会し、彼らと作品を批評したり句会を開いた。 明治38年(1905年)最愛の長女が電車事故で亡くなった事が、生来生真面目で神経質、そして多少の癇癪持ちだった春汀の心に、生涯重荷となってのしかかった。また大正2年(1913年)院展出品を目指して制作に意欲を燃やすも、振るわず次第に神経が蝕まれていく。翌年正月に発病、入院するも快方に向かわず生涯を閉じた。墓は長女と同じ染井霊園。後に分骨され、郷里福江の菩提寺・潮音寺の宮川家墓地に納められた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「宮川春汀」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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