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宮城 豊盛(みやぎ とよもり、天文23年(1554年) - 元和6年(1620年))は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。豊臣氏の家臣。本姓は大江氏。宮木とも。通称、長次郎または長次。官位は従五位下丹波守。法名は宗広。使用家紋は蝶紋の「揚羽蝶」が『寛政重修諸家譜』に載る。 == 生涯 == 六角氏の家臣・宮城賢甫(堅甫)の娘婿にあたる。山崎片家の子・頼久を養子とした。妹に鯰江貞勝室。 豊臣秀吉に仕え、三木合戦で功を挙げ、小田原征伐や文禄・慶長の役に参陣する。京の金戒光明寺再建の奉行を務める。文禄元年(1592年)に豊後国日田郡に蔵入地の代官として赴任し、日隈城を築城した。文禄3年(1594年)の時点で豊後日田・玖珠2万石(4万石とも)の蔵入地代官を務めた。 慶長3年(1598年)、慶長の役の最中に秀吉が死去すると、徳川家康より命を受け、徳永寿昌・山本重成とともに渡海し、朝鮮へ戦役中の将兵の撤兵を指導した。その功により翌慶長4年(1599年)、従五位下丹波守に任官する。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、西軍として大坂城平野橋を警護したため、戦後所領を没収されるが、頼久とともに徳川氏に仕える。頼久は慶長10年(1605年)実兄の山崎家盛より但馬国二方郡6000余石を分知され、芦屋に陣屋を構えたが、慶長14年(1609年)豊盛より先立って死去。その子の十二郎(のちの豊嗣)は5歳と幼いため、豊盛が後見として大坂の陣に出陣するなど実質的な当主として活躍した。 その後、駿府の徳川家康に仕え、家康死後は徳川秀忠の御伽衆となった。元和元年(1614年)、慈照寺(銀閣寺)再建の奉行や、元和5年(1619年)京都知恩院の普請奉行を務めている。 翌、同6年(1620年)京都にて67歳で死去。墓所は近江国今勝谷の阿弥陀寺。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「宮城豊盛」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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