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宮永武蔵 ( リダイレクト:天津風征夫 ) : ウィキペディア日本語版
天津風征夫[あまつかぜ まさお]

天津風 征夫(あまつかぜ まさお、本名:宮永 征夫(みやなが ゆきお)、1937年12月1日-2013年4月30日)は、石川県鳳至郡門前町(現・同県輪島市)出身で、時津風部屋に所属した大相撲力士。最高位は西前頭3枚目(1962年9月場所)。得意手は右四つ、寄り。現役時代の体格は179cm、124kg。
== 来歴・人物 ==
輪島高校定時制課程門前分校(現・門前高校)では、相撲部に所属し、2年生の時には県大会で個人優勝という実績を残した。この年(1954年)には、国民体育大会全国高等学校総合体育大会相撲競技大会にも出場している。
1955年時津風部屋の関係者からの勧誘を受けた。間も無く、高校を中退して同部屋へ入門し、同年5月場所で初土俵を踏んだ。
なお、当初の四股名は、本名と同じ「宮永」である。
暫くは幕下でやや停滞していたが、1961年5月場所で十両に昇進。
十両は4場所で突破し、1962年1月場所にて、24歳で新入幕を果たした。この場所より本名の「宮永」から、「天津風」へと改名。
しかし同場所では5勝10敗と大敗して、十両に陥落した。
翌3月場所では11勝4敗と大勝ちして十両優勝を遂げ、1場所で幕内に復帰。9月場所では、自己最高位となる西前頭3枚目に進出したが、2勝13敗と大敗を喫している。
1963年1月場所では前頭4枚目の地位で6勝9敗と負け越したが、8日目に大関佐田の山を寄り切って、大関戦初勝利を挙げている。翌3月場所では前場所と同じく6勝9敗と負け越したものの、3日目に佐田の山と再度対戦し、下手投げで連勝した。1964年5月場所中、右足首を捻挫して途中休場し、翌場所では十両に落ちた。
十両陥落後は3度に亘って2桁黒星を喫するなど暫くは振るわなかったが、徐々に調子を取り戻し、1965年11月場所で幕内に返り咲いた。しかし、2場所後に再び十両に陥落し、その後は2度と幕内に復帰できなかった。
1967年3月場所では西十両13枚目で7勝8敗の星を残したが、「番付削減」の煽りを受けて翌5月場所、幕下に陥落させられてしまった〔当時の十両の枚数は、東西ともに18枚ずつであった。そのため、今までなら13枚目に於いての1点負け越しという成績で、次の場所で幕下へ落とされる事はまずあり得なかった〕。

この5月場所では東幕下5枚目に在って中日を終えて1勝3敗と振るわず、途中休場し、場所後に引退を表明した。
右を差して鋭い出足を武器に寄って出る取り口を得意としており、稽古場では強かった。だが、本場所では気の弱さから実力を十分に発揮できず、また三賞を一度も受賞できなかった。
引退後は日本相撲協会に残らず、1967年9月より石川県金沢市片町で相撲料理店「天津風」を営んだ後、千葉県に移り住みヤクルト本社にサラリーマンとして勤務した。
だが、現役時代からの持病であった糖尿病の悪化で両足切断を余儀なくされ、帰郷。晩年は、羽咋郡志賀町内の介護施設で生活していた。
非常に暢気な性格で、次のようなエピソードがある。幕下時代のある日、信州方面へ行く汽車のデッキに腰掛けて足を汽車の外側に出していた。汽車が大月駅のホームに入ってもその儘にしていたため、膝をホームのコンクリートでこすってしまい、血だらけになった。その後、「危うく足を一本だめにするところだった」と苦笑していたという〔読売新聞「大相撲」臨時増刊『古今大相撲事典』〕。
2013年4月30日午前9時30分頃、心筋梗塞のため石川県内で逝去した。享年75〔『相撲』(ベースボール・マガジン社)2013年9月号にて、訃報が伝えられた〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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