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宮澤 喜一(みやざわ きいち、1919年(大正8年)10月8日 - 2007年(平成19年)6月28日)は、日本の大蔵官僚、政治家。 参議院議員(2期)、経済企画庁長官(第12・13・17・18・29代)、衆議院議員(12期)、通商産業大臣(第32代)、外務大臣(第103代)、内閣官房長官(第44代)、副総理、大蔵大臣(第88・89代)、内閣総理大臣(第78代)、郵政大臣(第56代)、農林水産大臣(第18代)、大蔵大臣(第105・106・107代)、財務大臣(初代)、自由民主党総務会長、自由民主党総裁(第15代)などを歴任。 == 来歴・人物 == === 出生から学生時代まで === 宮澤裕・こと夫妻の長男として東京に生まれた。本籍地は広島県福山市〔宮澤喜一 略歴 〕。母・ことは司法大臣、鉄道大臣等を歴任した小川平吉の二女。関東大震災後、母方の祖父小川平吉の別荘である平塚の「花水庵」で過ごす。父の裕は当時山下汽船に勤務していたが、すでに政界を志し、広島県から国会へ進出しようとして着々と準備を進めていた〔清宮龍著『宮沢喜一・全人像』48頁〕。 東京高師附属小学校(現・筑波大学附属小学校)、旧制武蔵高等学校(現・武蔵大学、武蔵中学校・高等学校)を経て東京帝国大学法学部政治学科卒業。在学中の1939年(昭和14年)、日米学生会議に参加のため渡米した。 宮澤三兄弟の幼少の頃を知るいとこの和田貞子によれば、「三人はいずれも二歳違いで、とても仲の良い兄弟でした。住まいは東京でしたが、夏になると伯父(裕)の故郷であるこの福山に帰ってきて、海水浴などにでかけていました。お母さんのいうことをよく聞き、礼儀正しい子でしたね。とくに喜一先生は小学校高学年のころから議論好きで、何かというと議論していました。高校、東大に通われるころ、私は東京の家にお手伝いにいっていたのですが、そのころは勉強ばかりしていたのが印象的です」という〔神一行著『閨閥 改訂新版 特権階級の盛衰の系譜』 206頁〕。 学生時代のことを、宮澤は次のように語っている。「私達の学生時代はご承知のような時代だったから、あんまり思い出というほどのものもないが、よく能をみて歩いた。ただ、家があまり裕福でなかったのに能の切符はその頃一円ぐらいして非常に高かったので、それを買うのが大変だった。能が好きになったのは両親の影響もあったのだろう。母が謡をやっていて、私も中学から大学まで謡をならった。若いときにやったから一応はちゃんとうたえるようになった。能のほかには当時の学生と同じようによく映画をみ、レコードを買ってきいた。神田の神保町に中古のレコード屋があって、よく買いにいったものだ…」〔清宮龍著『宮沢喜一・全人像』69頁〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「宮澤喜一」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Kiichi Miyazawa 」があります。 スポンサード リンク
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