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宮沢正史 : ミニ英和和英辞書
宮沢正史[みやざわ まさし]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [さわ]
 【名詞】 1. (1) swamp 2. marsh 3. (2) mountain stream 4. valley 5. dale 
: [ただし, せい, しょう]
 【名詞】 1. (logical) true 2. regular 
正史 : [せいし]
 (n) authentic history

宮沢正史 : ウィキペディア日本語版
宮沢正史[みやざわ まさし]

宮沢 正史(みやざわ まさし、1978年4月24日 - )は山梨県出身の元プロサッカー選手。ポジションはミッドフィールダー(主にボランチ)。
== 来歴 ==
小学3年生(8歳)時にサッカーを始める。帝京第三高等学校を経て、1997年中央大学に進学。同大学のサッカー部に所属し、関東大学リーグのベストイレブンに3年連続で選出されるなど活躍した。3年時には1999年夏季ユニバーシアードに出場〔1999年 第20回ユニバーシアード・マヨルカ(スペイン)大会 ユニバーシアード代表メンバー College Soccer Central〕。
2001年FC東京に入団〔 FC東京 (2000年9月16日)〕。加入当初は2列目の選手としてプレーしており、フィジカル面での課題があったことなどからトップでの出場機会が少なかったが、翌2002年原博実監督が就任すると「(キックの)フォームが誰よりも綺麗」とボランチのレギュラーに抜擢され、同年のJリーグ優秀新人賞を受賞するなど活躍〔 東京中日スポーツ (2007年1月8日)〕〔 FC東京 (2002年12月5日)〕。特にコーナーキックフリーキックなどセットプレー時に宮沢が蹴るボールはFC東京の得点源となった。また中盤下がり目の位置からの攻撃の第一歩となるロングパス、サイドチェンジの正確なボールを蹴る点も大きな特徴であり〔飽くなき娯楽性と大勝利の追求、05シーズン版FC東京 原博実監督インタビュー スポーツナビ (2005年4月29日)〕、原の目指す両サイドをワイドに使ったサッカーに欠かせない選手に成長した。2004年以降は今野泰幸梶山陽平の台頭により控えに回ることが多くなっていた〔宮沢 4戦ぶりスタメン『前線の3人うまく使いたい』 東京中日スポーツ (2006年10月27日)〕。
また、2002年、2003年にはJリーグ選手協会支部代表〔Jリーグ選手協会 JPFA 役員名簿(2002) Jリーグ選手協会 JPFA 役員名簿(2003) 〕を、2004年には同支部長を務めた〔Jリーグ選手協会 JPFA 役員名簿(2004) 〕。
2007年、出場機会を求め大分トリニータへ完全移籍〔 FC東京 (2007年1月11日)〕〔 大分トリニータ (2007年1月11日)〕。開幕時こそスターティングメンバーだったものの、連係がうまくいかなかったことなどからボランチの先発を外れ、一時は左ウイングバックに配された。シーズン途中からボランチにエジミウソン及びホベルトが補強されて以降はベンチ入りも出来ずにいた〔選手出場記録 (1/2) , (2/2) Jリーグ (2007年12月1日)〕。2008年は1年間の期限付きベガルタ仙台へ移籍していたが〔 ベガルタ仙台 (2007年12月13日)〕、左サイドのバックアッパーとしての加入だったこともあり〔 日刊スポーツ (2007年12月12日)〕、公式戦3試合のみの出場にとどまった。
2009年より大分へ復帰〔 ベガルタ仙台 (2009年1月27日)〕。2010年からはチームのJ2降格等の影響で多くの主力選手が退団した中、スタメンに再抜擢された。またこの年に日本サッカー協会公認B級コーチライセンスを取得している〔 日本サッカー協会 (2010年4月7日)〕。2011年からは最年長選手としてチーム主将に就任し、2013年まで計3シーズン務めた〔キャプテン・宮沢正史が公式の場で口にした初めての感情「さみしいし、悲しく悔しい気持ちでいっぱい」 blogola (2013年11月28日)〕。田坂和昭監督からは、展開力を持つものの守備は弱いとされてきたが、その改善に取り組み、さらにオフ・ザ・ボールのポジショニングにも向上を見せていると評価された〔【J2日記】大分:33歳の存在感 - J's GOAL(2011年5月18日)〕。2013年は4年ぶりのJ1でのプレーとなったが、ロドリゴ・マンシャ梶山陽平の加入の影響等によりボランチのポジション争いが激化し〔苦境を支えたキャプテン・宮沢正史が凱旋試合に士気を高める「降格が決まったが、ライバルチームに勝てるよう頑張りたい」 blogola (2013年11月21日)〕、出場機会は前年と比べ減少。先発を外れる試合も少なくなかったが〔宮沢正史が見せた、キャプテンとしての責任感と意地 blogola (2013年10月23日)〕、精神的支柱として心を砕き懸命にチームをまとめた〔キャプテン・宮沢正史が公式の場で口にした初めての感情「さみしいし、悲しく悔しい気持ちでいっぱい」 blogola (2013年11月28日)〕。システムを4バックに変更した第29節以降はスタメンの座を奪い返すも、同年をもって契約満了により大分を退団。
2014年、積極補強を図るFC岐阜から中盤の司令塔として〔岐阜 宮沢獲り! 再建のキーマンとしてラモス氏が熱望 スポーツニッポン (2013年12月27日)〕オファーを受け、同クラブへ移籍〔宮沢正史選手 FC岐阜へ完全移籍のお知らせ 大分トリニータ (2014年1月10日)〕〔宮沢正史選手、大分トリニータより完全移籍加入のお知らせ FC岐阜 (2014年1月10日)〕。中盤底から多彩なパスを供給し〔積極的に仕掛け先制 FC岐阜がJFL・大分を圧倒 中日新聞 (2014年2月14日)〕先発に定着した。
2015年シーズン中盤から特別指定選手の青木翼らにスタメンを譲り、11月27日に同年限りでの現役引退を発表。2016年より、古巣・FC東京のスカウティングスタッフに就任。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「宮沢正史」の詳細全文を読む




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