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宮津藩(みやづはん)は、江戸時代、丹後国にあった藩の一つ。京極高知の代は丹後一国を領したため丹後藩とも呼ばれた。藩庁は宮津城(現在の京都府宮津市)に置かれた。 == 略史 == 慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦い後に細川忠興が豊前小倉藩へ移されると、丹後国には信濃飯田藩より京極高知が田辺城に入り(幕府に届出た正式な居城は宮津城)、丹後一国を領した(丹後藩)。のちに拠点を宮津城に移す。 後に嫡男の高広を宮津藩に、三男の高三を田辺藩(舞鶴藩)に、甥で婿養子の高通を峰山藩に入れ、丹後に3藩を並立させた。従って、実質的には高広より宮津藩が成立したといえる。高広の子高国は寛文6年(1666年)、幕府に悪政・一族不和等の不行跡を咎められ、改易となった(宮津京極家自体は高家旗本として存続した)。 幕府直轄を経て、寛文9年(1669年)、永井尚征が山城淀藩より入城した。奏者番となった第2代藩主・尚長は延宝8年(1680年)、第4代将軍・徳川家綱の葬儀が増上寺で行われた際、乱心した志摩鳥羽藩主・内藤忠勝に殺害された。尚長には嗣子がなく、永井家は改易となった。後に弟の直円に大和櫛羅藩1万石が与えられて再興している。 天和元年(1681年)、阿部正邦が武蔵岩槻藩より入封するが、元禄10年(1697年)には下野宇都宮藩に転出している。入れ替わりに同地より奥平昌成が入封し、享保2年(1717年)には豊前中津藩に転出する。 代わって信濃飯山藩より青山幸秀が入封した。第2代藩主・幸道は宝暦8年(1758年)、美濃郡上藩に移封となるなど、目まぐるしく入れ替わった。 遠江浜松藩より松平資昌が7万石で入って、ようやく藩主家は定着をみることとなった。松平(本庄)氏の家祖・宗資は第5代将軍・綱吉の生母・桂昌院の異母弟ということで大名に取り立てられ、宗資の子資俊より松平姓を許された。当家は7代続き、うち2人が老中、1人が寺社奉行と幕閣の中枢に進出している。慶応4年(1868年)の鳥羽・伏見の戦いでは幕府方として戦ったが敗戦し、以後は明治政府に恭順した。 明治4年(1871年)廃藩置県により宮津県となり、豊岡県を経て京都府に編入された。藩主家の本庄松平氏は明治17年(1884年)、子爵となり華族に列した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「宮津藩」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Miyazu Domain 」があります。 スポンサード リンク
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