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熱田神楽(あつたかぐら)・宮流神楽(みやりゅうかぐら)は、愛知県の尾張・西三河地方に伝わる巫女神楽の一種で、古くから熱田神宮内で行われていた神楽がこの地域全体に広まったものである。曲自体に関しては、熱田神楽も宮流神楽もほぼ同じものを指しているが、熱田神宮を中心とした名古屋市の南部~東部では熱田神楽という名称が、西三河から知多半島北部では宮流神楽という名称が主に使われており、尾張地方北部ではグループを総称的に言う名称はあまり使われていない。西三河~知多半島北部では、現在でも巫女舞の伴奏として奉納されている例が多く見られるが、それ以外の大部分の地域では、巫女舞自体が廃れてしまっており、神楽の奉納は笛太鼓のみで行われている。 == 歴史 == 熱田神楽・宮流神楽の起源ははっきりしないが、少なくとも江戸時代後期にはすでに、菊田家・鏡味家・若山家などの熱田神宮社家(神楽座)の神楽師たちによって、熱田神宮の中で演奏されていた。彼らは周辺地域に出張演奏・指導にも出かけており、半田市亀崎の中切組祭典役割帳には、文政10年(1827年)に熱田神宮社家の大原紋二に謝礼を支払ったという記録が残っている。幕末には、ある程度広い地域に広まっていたと考えられているが、具体的な資料はわずかしか残っていない。 明治維新後、新政府は神道国教化政策をとり、神仏分離令(明治元年)を発布した。その廃仏毀釈的な考え方から、熱田神宮でも雅楽による御神楽だけが正統なものとされ、民俗芸能的な里神楽は排除されることになった。明治8年には熱田神宮の楽人機構が変更となり、里神楽を担当していた楽人たちは皆失職し、生活の糧を求めて周辺地域にちらばって行った。彼らは各地で神楽の演奏・指導を職業とするようになり、それまで熱田神宮の中でずっと行われていた里神楽が、爆発的にこの地域全体に広がって行った。そして、以後、熱田神宮の公式な神事で里神楽が奉納されたことは無い(熱田祭りなどで演奏されている熱田神楽は、神事の一環としてではなく、あくまで祭りの出し物の一つである)。 残った神楽座の人々は、菊田斎女(きくたさいめ、文政年間頃生まれ、男性)を初代宗家とし、熱田町内の神楽師とともに出張演奏・指導を続けて行った。しかし、地元の熱田町の祭りである熱田大山祭りが明治中~後期に衰退して行くと、熱田の神楽師の勢力は徐々に減少して行き、昭和10年に熱田神宮遷座祭が行われた時には、熱田の神楽師だけで祭礼すべての神楽を取り仕切る力は、もはや無くなっていた。それをきっかけに、熱田神楽3代目宗家の鏡味鉦之助(かがみしょうのすけ)と熱田町の神楽師を率いていた加藤鎌吉(かとうかまきち、文久元年生まれ)から、笠寺町内(名古屋市南区、笠寺観音周辺)の荒川関三郎(あらかわせきさぶろう、明治30年生まれ)に、熱田神楽の正統が委譲され、熱田神楽の中心は熱田町から笠寺町に移っていった。ただし、当時、現在の名古屋市南部から東部に相当する地域には、熱田の神楽師から直接影響を受けた町内(神楽連)が笠寺町以外にも多数存在し、それぞれ独自に伝承を行っていた。それらの町内が、必ずしも笠寺町の傘下に入っていたわけではない。荒川関三郎は4代目宗家を名乗り、多くの弟子を育てた。昭和46年1月に荒川関三郎が亡くなると、笠寺保存会は浜野司(はまのつかさ)が後を引き継いでいる。 一方、明治時代には、菊田斎女とは別のもうひとつの宗家があったと考えられている。ただし、詳細は不明で、初代宗家の名前もカンタロウ・サンタロウ・勘三郎など諸説がある。宮流神楽という名称を使っている地域(西三河から知多半島北部)は、ほとんどこちらの流派に属しており、熱田神楽という名称を使っている地域とは、笛のメロディーはほとんど同じであるが、曲目と太鼓の打ち方が微妙に違っている。尾張北部の地域は、曲目や太鼓の打ち方から見て、こちらの流派に属していると想像されているが、具体的にそれを裏付ける伝承は確認されていない。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「熱田神楽・宮流神楽」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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