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宮負定雄 : ウィキペディア日本語版
宮負定雄[みやおい やすお]
宮負 定雄(みやおい・やすお、寛政9年(1797年) - 安政5年(1858年))は江戸時代国学者
正しくは宮負佐平貞夫と称す。通称佐平。雅号は亀齢道人。
==経歴==
下総国香取郡松沢村の世襲名主宮負佐五兵衛定賢の長男として生誕する。父親は文政2年(1819年)に平田篤胤の門下に入門し熱心な求道者でもあった。長男の定雄こと通称佐平は、若き頃酒色に身を持ち崩して放蕩し勘当されたこともあるという。後に深く反省する事もあり、改心して以後は農事に専念し三十歳のときに「農業要集」を平田塾より出版している。そもそもの切っ掛けは、当時下総国学の指導者であった父親の敬神崇祖の姿にうたれ、文政9年(1826年)3月平田門の気吹舎塾を訪ね入門誓詞を篤胤に提出したことによる。この頃には数多の書林を紐解き勉学と研究に打ち込んでおり、定雄の熱意と見識を頼もしく感じ取った篤胤の好意と推薦とにより、自著を塾より出版する許可を得ている。以来しばしば江戸を往来して平田門に出入し、師である篤胤の謦咳に接するとともに、師の書かれた貴重な書物などは借覧して筆写し、以前にも益して著述に専念し幽冥の研究や農業種芸の世界に没頭して行く事になる。
定雄は29歳の折りに平田塾に入門し篤胤翁と邂逅したが、当時の篤胤は五十路を迎え、その前年には古史の神代巻解釈がほぼ完成しており、また幽境隠れ里前世物語や再生譚、妖怪ものなどの不可思議な現象や異界に対する研究も一段落していた。つまりこの時期は篤胤学の分岐点でもあったのである。これから更に神仙思想を敷衍した、道教の玄学思想に関心を示し、玄学に関する著述を数多物すことになる。時節柄最も篤胤が学問的に脂の乗った時期であり、カリスマ神憑り的な師の存在は、定雄にとって計り知れない影響力があったと推察される。この時節に同門の門弟菅原道満こと生田万も師の指し示す道は、皇神の道であり師の教えこそは神仙の道だと断言している。
平田家秘蔵篤胤自筆の「道統礼式」には玄学伝授の詳細が書かれており、一部の選ばれた弟子達には秘かに三皇符、九老仙都、古本五岳真形図、長生符 六甲通霊符 真一成真の伝 久延彦祭式 山客神訣 神図他神仙色の強い玄学教義書を伝授した。
宮負も神道の本質が古道の奥に流れる玄学にある事を開眼し、やがてその思いは、紀州若山の島田幸安の存在と弟子の参澤宗哲の思想に結びつくことになる。では何ゆえに定雄と参澤が紀州若山で邂逅する事が実現したのか。その経緯については神界物語最終巻の序後に詳細に本人が語っているので、郷土史資料、旭市史第2巻近世北部史料編・(特殊資料・下総国学資料ニ)下総国学の交流より一部抜粋させてもらうことにする。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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