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宮錦 浩(みやにしき ひろし、1927年5月30日-1992年7月6日)は、1950年代に活躍した大相撲力士である。本名は野澤 浩(のざわ ひろし)。高砂部屋(入門時は芝田山部屋)に所属していた。最高位は西小結(1955年1月場所)。得意手は左四つ、寄り。現役時代の体格は171cm、119kg。 == 来歴・人物 == 岩手県宮古市出身。実家は、酒や米を売る商店を営んでいた。 1942年(昭和17年)5月、元横綱・宮城山福松が率いる芝田山部屋に入門したが、程なく親方が逝去。それにより宮城山の師匠・早瀬川(元関脇)の高田川部屋に預けられ、その後、彼の死去に伴って高砂部屋に移った。 序ノ口に付いた時の四股名は、出身地・岩手県の名峰(早池峰山)に因んだ「早地峯」。その後、郷里の地名(宮古市)から1字を取った「宮錦」に改名している。 1951年(昭和26年)1月場所にて新十両に昇進すると、この地位を1年で突破し、翌年1月場所で新入幕を果たした。 小柄で小アンコとでもいう体格で重心の低さを利用しての寄り身が得意であったが、逆にがっぷりに組まれると力が出ず、地味な取り口に終始した。 だが、東前頭5枚目で迎えた1954年 (昭和29年) 9月場所では、唯一ともいえる見せ場を作る事となる。 同場所初日、横綱昇進を目指す大関・栃錦を破る(栃錦はこの1敗のみで14勝1敗で優勝し、場所後に横綱昇進を決めた)とさらには10日目、横綱・鏡里を破った。最終的には、この二番が利いて8勝7敗という平凡な星ながら敢闘賞を受賞し、翌1955年(昭和30年)1月場所では自己最高位となる西小結に昇進した。 しかしこの場所、1勝14敗と惨敗して、1場所で小結の座から陥落。以降は、2度と三役に戻れず、幕内中~下位にいる事がほとんどであった。現役晩年は休場がちとなり、十両尻まで番付を落としていた。 1959年(昭和34年)11月場所限り、32歳で引退し、年寄・芝田山(奇遇にも、最初の師匠である元・宮城山が所有していた名跡でもある)を襲名。 以後は高砂部屋付きの親方として後進の指導に当たる傍ら、勝負審判や指導普及部委員などを務めた。 停年直前、芝田山の名跡を二所ノ関一門の元横綱・大乃国(当時、一代年寄)に譲渡。 1992年(平成4年)5月場所後に停年を迎え、昭和生まれとして初めて、無事に停年退職を迎えた年寄となった。 だが、直後に体調を崩し、退職から僅か1ヵ月後の同年7月6日に横浜市内の病院で亡くなった。死因は、心不全であった。享年65。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「宮錦浩」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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