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徳川 家継(とくがわ いえつぐ)は、江戸幕府の第7代将軍(在任:1713年 - 1716年)。 第6代将軍・徳川家宣の四男。母は側室で浅草唯念寺住職の娘・お喜代(月光院)。一時期、徳川家の旧苗字「世良田」を用いて世良田 鍋松(せらた なべまつ)と呼ばれていた。婚約者は霊元天皇の皇女・八十宮吉子内親王。史上最年少で任官した征夷大将軍である。 == 生涯 == === 将軍になるまで === 宝永6年(1709年)7月3日、第6代将軍・徳川家宣の四男〔家継の幼名鍋松から、間部(間鍋)詮房が父という説があるが、俗説で信憑性は低い。〕として生まれる。家宣は子宝に恵まれず、正室・近衛熙子(天英院)との間に生まれた豊姫は天和元年(1681年)に早世し、宝永4年(1707年)に側室・おこうの方との間に生まれた家千代も2ヶ月で早世し、宝永5年(1708年)に生まれた大五郎も宝永7年(1710年)8月に早世した。正徳元年(1711年)にお須免の方との間に生まれた虎吉も早世し、家継だけが生き残った。 正徳2年(1712年)、父・家宣が病に倒れたが、このときの9月23日に家宣は新井白石と間部詮房を呼び寄せて、「次期将軍は尾張の徳川吉通にせよ。鍋松の処遇は吉通に任せよ」と「鍋松を将軍にして、吉通を鍋松の世子として政務を代行せよ」の2案を遺言したと『折たく柴の記』には記されている。そして家宣が死去すると白石は「吉通公を将軍に迎えたら、尾張からやって来る家臣と幕臣との間で争いが起こり、諸大名を巻き込んでの天下騒乱になりかねぬ。鍋松君を将軍として我らが後見すれば、少なくとも争いが起こることはない」として、鍋松の擁立を推進した。これに対して、幕閣の間では「鍋松君は幼少であり、もし継嗣無く亡くなられたらどうするおつもりか」という反対意見もあったが、白石は「そのときは、それこそ御三家の吉通公を迎えればよい」と説得したという。また一説に家宣が、「鍋松の成長が見込めなかった場合は、吉通の子・五郎太か徳川吉宗の嫡男・長福丸を養子として、吉通か吉宗に後見させよ」と遺言したという。こうして家宣没後の正徳3年(1713年)4月2日、鍋松は家継と改名し、将軍宣下を受けて第7代将軍に就任した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「徳川家継」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Tokugawa Ietsugu 」があります。 スポンサード リンク
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