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寇 恂(こう じゅん、? - 建武12年(36年))は、後漢初期の武将、政治家である。字は子翼。上谷郡・昌平県(現在の北京市昌平区)の人(『後漢書』列伝6・本伝)。爵位は雍奴侯。諡号は威侯。光武帝の功臣であり、河内郡太守、潁川郡太守、汝南郡太守、執金吾などを歴任した。「雲台二十八将」の第5位に序せられる(『後漢書』列伝12)。 ==略歴== 彼の生家は先祖代々、現地の有力豪族であった。寇恂は若い時から学問を好んで励んだ。後に、州郡の官吏(功曹)として、上谷郡太守の耿況(雲台二十八将の耿弇の父)に仕えた。耿況は寇恂に一目置き、その才を賞賛した。 寇恂は、更始帝の派遣した行大司馬劉秀(光武帝)が華北出身で邯鄲で蜂起した易者・王郎を討伐すべく兵を集めた頃に、太守耿況に漁陽郡と連合することを説いて上谷を劉秀に帰順させ、その一将として兵馬を率いて劉秀に合流した。故に彼は偏将軍・承義侯に任命された。後に、鄧禹の推薦によって食料の補給の拠点である河内郡の太守・行大将軍事となり、兵糧の輸送、弓射演習、矢の製造、軍馬の養成に勤めた。鄧禹が寇恂の文武の才能を述べる際に前漢の相国・蕭何を例として引いたために、よく蕭何と比較される。後にはその有能と聡明さで光武帝の信頼も勝ち得ている。 寇恂が、この河内郡の太守であった時に、黄河の対岸である河南郡洛陽から、劉秀の北伐の隙を狙った更始帝(劉玄)の武将・朱鮪・蘇茂が攻撃を仕掛けたが、寇恂は兵才を発揮し、同僚の馮異と共にこれを撃退し、逆に洛陽まで進撃した。建武二年(26年)に、その目覚しい戦功を光武帝に絶賛され、雍奴侯に封じられた。 また、彼は外交の名手でもあり、相手を説得する時にその状況を察知して、見事に懐柔することを得意とした。彼は宰相の才があると言われたが、実際そうなることは無かった。彼が治めた土地には必ず、民百姓が彼を慕ったという。また、俸禄は朋友・部下の吏士に施し「我は兵士たちによって俸禄を得た。それ独りこれを受けるべけんや」と言っていた。 その後も、光武帝の隴西遠征に従軍し、隗囂の武将・高峻を降した。しかし、光武帝が天下統一する目前に病没した。 曾孫の寇栄(寇恂の末子の孫)は侍中を務めたが、宦官の讒言により辞職して郷里に隠棲した。しかし、延熹元年(158年)に幽州刺史の張敬に家族とともに捕らわれて、延熹7年(164年)12月に桓帝の勅命により、寇栄は家族とともに皆殺しの刑に処され、こうして寇恂の子孫は凋落した(『後漢書』列伝第六-寇栄伝)。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「寇恂」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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